拓海広志「天皇と熊野(1)」

 これは今から12年ほど前にジャカルタで書いた小文です。よろしければお読みください。


   *   *   *   *   *   *   *


 僕は昔から旅が好きで、20歳になる頃には既に日本の全都道府県を訪ねていたのだが、そうした10代の旅の中で自分が最も惹きつけられた土地の一つが熊野であった。


 熊野というのは紀伊半島の中央部から南と西に拡がるエリアのことで、どこまで行っても深い山と森が続き、狭隘な谷間を流れる幾筋かの川を下ってようやくたどり着いたところが黒潮の打ち寄せる太平洋だという、非常に自然の豊かなところなのだが、平地がほとんどないために農業にはあまり適しておらず、まさに山人と海人の住処だと言える。当時の僕は熊野を旅しながら、その自然や文化、あるいはそこに住む人々の大らかさに魅せられていったのである。


   *   *   *   *   *   *   *


 古来、熊野は「黄泉国」「常世国」などと呼ばれ、非常に強い「辺境の聖地」的イメージを付与されてきたところだ。


 確かに熊野の山や海を巡っていると強い「気」を発する場所に遭遇することが少なからずあるのだが、それらは熊野の豊饒な自然の醸し出す精気と、それをアニミズム的な信仰の対象としてきた人々の想念の、幾世代にもわたる相互作用の結果として醸成されてきたものだろう。


 だが、そうしたことと熊野に与えられた独特の聖地イメージを一直線に結びつけてしまうと、熊野への理解がいささか偏ったものになる恐れもある。


   *   *   *   *   *   *   *


 生態民俗学者の野本寛一さんは『熊野山海民俗考』の中で、「人と環境とのかかわりを見つめるということは概括的・観念的な自然認識や環境認識を否定することである」と言明し、「熊野は古来、外から来たる者をひきつける強力な吸引力の主体であった」ことを認める一方で、「熊野から外に向かって発信された信仰(註:修験道や熊野信仰のこと)は、その成立基盤・基層は別として、熊野の庶民とは隔たりを持ったもので、中央的、集団宗教的なものであった」と語っている。


 これは非常に重要な指摘なのだが、先述の「黄泉国」「常世国」といった「辺境の聖地」的イメージもまた、中央の政権を担う人々によって政治的な思惑を孕みながら付与されたものであることを見落としてはならぬだろう。


 熊野各地を巡る炭焼きの家に生まれた宇江敏勝さんも「修験道の原点にまでさかのぼると、熊野の山人の原初的な信仰と重なり合うとしても、その後確立されていった修験道の信仰体系における山の神と、熊野で暮らす山人たちにとっての素朴な山の神は別物である」と語っているが、外部から熱い眼差しで見つめられてきた熊野だけにこうしたズレがあっても不思議ではない。


 それに、そもそも修験道が、その開祖とされる役小角葛城山一言主(国ツ神)や、同様に大峯に住む国ツ神の末裔と思われる前鬼、後鬼らを支配することによって始まったものであるならば、その古層にあった土着の信仰との間には連続性もあれば、断続性もあってしかるべきだろう。


 野本さんは「死者の国・熊野」を日常の生活の場としてきた住民たちの自然観や、それに基づく信仰のあり方を環境との関係性の中で捉え直すべく、熊野の人々の詳細なライフヒストリーを綴っておられる。僕は野本さんの姿勢や方法に対して非常に共感をおぼえており、僕自身も外部から付与されたイメージとしての熊野ではなく、自己の身体感覚を重視しながら熊野との関わりを深めたいと思ってきた。


   *   *   *   *   *   *   *


 熊野が人々の注目を集め、様々な宗教的イメージを獲得していったのは古代から中世にかけてのことだ。


 現在の熊野は既に杉や檜といった人工林からなる山々が大半を占めるようになっているが、かつては鬱蒼とした原生林に覆われていた筈で、森林を生活の場としていた縄文人たちにとっても熊野は食資源に富んだ場所であったと思われる。そして、年間を通じて降雨量が多く、南へ下るほど亜熱帯的な気候となる熊野の自然は、その再生力の強さという点で、人々に鮮烈な印象を与えたことだろう。


 さらに熊野は鉱物資源や泉質の良い天然温泉にも恵まれているし、神座として想定するのに格好の巨岩もごろごろしているわけで、こうした場所が古代人のアニミズム的な信仰の対象となったのは、むしろ当然のことだとも言える。


 だが、熊野の豊かな自然や、その森林を住処としていた縄文人たちの自然信仰は、やがて大和朝廷を成立させた勢力によって様々な形に利用されていくことになる。


 神武天皇が大和に攻め上る際に、敢えて紀伊半島を迂回して熊野に上陸し、その山中を突っ切って大和へ向かったのは、彼らが大和に都を定めるにあたって、そこから至近距離にある一大縄文勢力圏の熊野を抑えておく必要があったからだろう。


 この時から天皇家は熊野を意識し続け、そこに住む山人や海人たちを抑えること、豊富な森林資源や鉱物資源を獲得すること、さらにそこにある自然信仰を体制内に取り込むことに力を注ぐようになったと思われる。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



熊野川の上流部にあたる北山川を望む】


Link to AMAZON『熊野山海民俗考』

熊野山海民俗考

熊野山海民俗考

Link to AMAZON『熊野古道を歩く』
Link to AMAZON『神と霊魂の民俗』
神と霊魂の民俗 (講座 日本の民俗学)

神と霊魂の民俗 (講座 日本の民俗学)