拓海広志「天皇と自然(2)」
これは僕が学生のとき(今から20年ほど前)に書いた未完の連作エッセイに、その後ジャカルタ在住中に少し加筆したものです。当時とは連作の順序を変えて紹介させていただこうと思います。内容的にはかなり未熟なものですが、もしよろしければお付き合いください。
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天皇制の特異性について考える前に、自然と王権の結びつきを考える上での事例となるものを探していた僕はインドネシアのことに思い至った。
それは中部ジャワのジョクジャカルタに都を置いたイスラム・マタラム王国の話なのだが、かつてジャワ島において強固な王権を確立した同王国の始祖スノパティは、スンダ及びジャワ、バリのアニミズム信仰において非常に重要な意味を持つニャイ・ロロ・キドゥルという南海の女神と夫婦の契りを交わしたと言われる。
スノパティはそれによって王権の正当性を確立すると共に、同地にあった土俗的あるいはヒンドゥー的な信仰をイスラムの中に取り込むことに成功したのだが、このことは僕たちに多くの示唆を与えてくれる。
インドネシアの各地方を旅して回ると実感できるのだが、この国は他に類例を見ぬほど自然環境に恵まれており、豊かな大地や森、海、川の幸のおかげで、余程のことがない限り人々が飢えることなどなさそうなところが大半である。
ところが、そんな中にも環境の厳しい地方は幾つかあり、中でも中部ジャワのグヌン・キドゥル周辺の山岳地帯は土壌が非常に貧しい上に、インドネシアでは珍しく水不足に悩まされがちな地域である。
現在、ジャカルタやスラバヤ、ジョクジャカルタといった都市の中〜上流家庭でお手伝いさんとして働いている女性の多くはこの地方の出身者なのだが、それを見てもこの地方での生活の厳しさが想像できる。
他方、中部ジャワの平野部には地味に恵まれた生産性の高い農地が拡がっており、こうした豊かさに支えられて同地域の人口は多く、また人口密度も非常に高い。
このような隣接する地域における自然環境と生活水準の格差が原因したのかどうかはわからないのだが、中部ジャワには昔から「オラン・ブサール(大きな人=富める者)」が「オラン・クチール(小さな人=貧しい者)」を庇護するのは当然の義務であり、後者が前者に庇護されるのは当然の権利だとする考え方がある。そして言うまでもないことだが、最大の「オラン・ブサール」たる王に対して人々が期待するのは自分たちを庇護してくれることなのだ。
イスラム教が本格的にインドネシアに浸透するのは16世紀以降のことであり、そうした流れの中で1578年頃にイスラム・マタラム王国は建国されたのだが、古来の土俗信仰とヒンドゥー信仰に由来するアニミズム的な信仰の中で生きていた庶民にとっての関心事は、新しい宗教を掲げる新興国の王が自分たちを庇護するだけの力を持っているかどうかということであっただろう。
そうした中で王朝の指導者たちが始祖スノパティとアニミズムの女王であるニャイ・ロロ・キドゥルの結びつきを強調する物語を創作したのは、王権を土着の自然信仰のコンテクストの中にうまくはめ込んでいくためだったと思われる。
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だが、ジャワにおいてこうしたことを行ったのはスノパティだけではない。ジャワ島の出身であったスカルノとスハルトの二人のインドネシア共和国大統領は、その性格や政治手法が大きく異なっていたにもかかわらず、共に自らを「オラン・ブサール」の頂点とも言える「国父」として位置づけてきた。
そして、本気で自らの霊力を高めるためだったのか、あるいは庶民のアニミズム的な感性に訴えるためだったのかは定かでないが、スカルノはニャイ・ロロ・キドゥルに帰依し、スハルトはドゥクンと呼ばれるジャワの呪術師たちをいつも身辺に集めていたと言われている。それはまるでイスラム・マタラム王朝の隔世遺伝であり、その現代版カリカチュアのようでもある。
インドネシアはかなり古い時代から幾重もの移民の波に洗われており、様々な文化や宗教を携えた人々が入れ替わり立ち替わり入ってきているところだ。従って、同国には異民族・異文化間の絶え間ない摩擦や衝突が存在し、またそれらを緩和するための様々な文化的、政治的な仕掛けがある。
そうした古くて新しい知恵によってイスラム・マタラム王国は成立したのであろうし、スカルノやスハルトも人心を掌握しようとしたのだろうが、そんな仕掛けの中に「自然」という人類にとっての原初的、普遍的な信仰の対象と結びつくことによって権威を獲得するという方法があったのは注目に値することである。
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日本はインドネシアほど激しく移民の波に洗われ続けてきたところではないが、古代においては周辺諸地域から様々な民族がこの列島に入ってきていた。そして、天皇制に何らかの特異性があるとすれば、それは恐らく古代の日本において一定の文化的基盤を確立していた民族を、外来の民族が征服していった過程において天皇制が確立したことによるのではなかろうか。そういった視点から見ない限り、天皇が持つ宗教性の浸透力や影響力、持続力の強さが何に由来するのかということは、なかなか見えてこないのである。
柳田国男氏の『山人考』によると、天皇は朝鮮半島から水稲農耕をもたらした弥生の王(天ツ神)の子孫であり、先住民であった縄文の王(国ツ神)を滅ぼし、縄文人たちを山間部や辺境の地に追い込んでいくことによって大和朝廷は成立したことになる。
他方、江上波夫氏の『騎馬民族国家』によると、稲作は南方からもたらされたものであり、縄文末期には既に初期の稲作段階に入っており、そこに大陸から騎馬民族が攻め込んできたのだが、その王(天ツ神)の子孫こそが天皇であったということになる。
両氏の説は征服者が誰かという点においては異なるが、天皇が縄文人を征服した渡来人たちの王の子孫であるとする点においては共通している。
ところが最近では、縄文人たちが自然共生型の高度な生活文化や洗練された信仰体系を持っていたこと、また縄文末期には一部の地方で初期の稲作農耕が行われていたことなどが分かってきている。
そして、一方では6千年前頃から始まった気候の寒冷化によって森林の食糧生産力が低下したために縄文人の人口は減少傾向に入り、やがて突如として列島に蔓延したウィルス性の疾患(ATLウィルス)によってその人口が一気に激減したことも知られるようになってきた。
そこから推測されることは、自然と共生しながら豊かな文化や信仰を育んできた縄文人たちの生活が、自然の猛威に脅かされて存亡の危機に瀕していた時に、より安定的に食糧を供給できる稲作農耕の高度な技術を携えた渡来人たちが彼らを席巻していったのではないかということである。
ただし、縄文人が有していた文化水準の高さから考えると、渡来人は自分たちが持ってきたものを一方的に縄文人に押しつけるだけでは縄文人をうまく支配することはできなかったのではなかろうか。ことに宗教的なことに関して言えば、渡来人は縄文人がもともと持っていたものを尊重し、それを制度的に再組織化することによって洗練させ、自らもそれに帰依していった可能性が高いように思われる。
そうした宗教的な帰依の対象を天皇に集約するにあたって、渡来人たちは縄文人たちの自然信仰と天皇信仰を巧みに同化させていった筈で、それはイスラム・マタラム王朝がスノパティとニャイ・ロロ・キドゥルを結びつけた時よりも、はるかに徹底したやり方がとられたと思うのだ。
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こうしたことについて、より大胆な仮説を立てているのは栗本慎一郎氏である。栗本氏は田原総一郎氏との対談『闘論・二千年の埋葬』において、天皇制は古代における縄文勢力と弥生勢力の妥協の産物であり、弥生人たちは縄文の首長をそのまま天皇として奉り、統治システムは弥生人が持ち込んだものを採用した可能性があると語っている。そして、それ故に天皇は弥生の中心に居座りながらも、常に日本文化の基層部を担う縄文とも直結しうる両義的な存在になったというのだ。
栗本氏はこの説をさらに敷衍して、日本人の政治的な意思決定の曖昧さは、縄文と弥生の妥協の産物として天皇が生み出されたことに由来するとも語っているが、これもまた興味深い仮説だと言えよう。
(後略・・・)
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