共同討議「アジア太平洋の海と島(6)」

 1999年の5月に新西宮ヨットハーバーで、『アジア太平洋の海と島』と題するシンポジウムが開催されました(主催:アルバトロス・クラブ)。今回は、その中で行われたパネル・ディスカッション(パネラー:森拓也、長嶋俊介大森洋子、川口祐二さん。司会:拓海広志)の内容を紹介させていただきます。


* * * * * * *


※拓海広志;

 日本の海女と済州島の海女のつながりはかなり古くからあったのでしょうか?


※川口祐二;

 そうだと思います。最近は済州島の海女の密入国が問題になったりもしていますが、尾鷲、紀伊長嶋、海山町あたりへ行きますと、磯をもうぽーんと業者へ売るのですよ。一年間磯を売って、買った人は済州島から海女さんを雇ってきて、そこで潜り漁をやらせるわけですね。

 そうすると、彼女たちはアッと言う間に採り尽くしてしまうのです。こんなやり方をやっていると、海の資源は一気に減っていくのじゃないかなと思います。都会の人から見ると煩わしいように思えるかもしれませんが、漁村には漁をするにあたって細かい決め事があるわけで、そこには資源を保護するための知恵があるわけですから、やはりそうしたことを守っていくべきではないかと思いますね。


※拓海広志;

 ありがとうございました。さて、四人のパネラーの方々にそれぞれ非常に興味深いお話しをしていただき、これをまとめていくというのは大変難しいのですが、一つ共通するテーマとして「内と外」という問題設定をしてみようかなと思っています。

 私は皆さんのお話をうかがいながら、一つの人間集団が外部の集団と何らかの接触をした際にどんな風に変わっていくのかという点がとても気になりました。

 森さんはパラオの離島についてお話しされましたが、全く言葉が違う離島の酋長同志が集まって話をする際には、外部から与えられた言語である日本語を共通語として会話を交わすということをご紹介くださいました。

 長嶋さんは1960年代までは瀬戸内に自力更生型の社会保障システムがあったという話をされましたが、それも外部社会との関係の中で崩壊していったということでした。

 また、大森さんは『石の環』の第3部において、それまでは自然との関係性の中で移動を繰り返しながら生きてきた人類が、新たに人類対人類という構図の中で移動せざるを得なくなったいうお話しをされました。

 そして、川口さんは、故郷では自然と調和の取れたやり方で潜り漁をやっていた筈の済州島の海女さんが雇われて紀伊半島の漁村にやって来ると、そこの海の資源保護のことなど何も考えぬまま乱獲をしてしまうという話をされました。

 渡海・移動というものは必ず内と外の問題を孕んできますので、少しそのへんに焦点を当ててみようと思います。

 まず、長嶋さんにおうかがいしたいのですが、瀬戸内の自力更生型の社会保障システムが60年代になってから急速に崩壊していったということについて、そのあたりの事情をもう少し詳しくお教えいただけないでしょうか?


※長嶋俊介

 困窮島というのがつい最近まで残っていたところは、日本全国で四ヶ所ありまして、瀬戸内にはその内の三つがあったのですね。それがなくなったのは、かつては島の中だけで生活が成り立つような社会システムだったものが、出稼ぎ等によって島の外へ出る人が増え、そうした外的な要因によって島の中での所得・生活の格差が生じたことが大きいと思います。

 つまり、かつては有人島に住もうが無人島に移り住もうが大きな違いはなかったのに、有人島の方に電気がもたらされるようになると、そこから僅かしか離れていないのに真っ暗な無人島に住むというのは、非常に淋しい思いがするわけです。ですから無人島に移った人たちには、本島に戻りたくなる動機が出来てしまったのですね。

 話は変わって、日本の島々における海女漁についてですが、例えばアクアラングで潜れば簡単に採れるのに、それをしないところとして山口県蓋井島があげられます。何故しないのかと言えば、資源保護のためなのですね。ですから、禁漁期間を決めて潜ったり、採取できる貝のサイズに制限をつけるといったこともします。

 ただ、蓋井島は森の神様がいる島で、今でもそうした信仰を大切にし続けているところなのですね。つまり、海の秩序と陸の秩序が見事に調和しており、それによって豊かなコミュニティーが維持されているところなのです。彼らを見ていると、我々が大切にすべきものは、自然の声を聞く力であったり、次世代のことを考えながら生活することだと確信できますね。

 それから、先ほどパラオの離島と東インドネシアのつながりに関する話が出ましたが、私はパラオインドネシアの漁船団が係留されているのを見たことがあります。国境を越えて密漁したということで捕まったのです。でも、よくよく考えてみると、彼らは昔からこの海域を行き来していた筈で、当時のそれは越境でもなければ、密漁でもなかった筈です。つまり近代的な国家制度や国際ルールに基づく国境線が引かれるようになり、彼らの移動・渡海は犯罪行為とされるようになってしまったわけです。


※拓海広志;

 それは人為的に「内と外」の間の線が引き直されたことによって新たに起こってきた問題だと言えますね。


※川口祐二;

 今の長嶋さんのお話に付け加えさせていただきたいのですが、やはり資源を守るためには人間同志の決め事が必要です。最近の海女の多くは黒いゴムのようなウエットスーツを着て泳ぐのですが、日本でただ一ヶ所だけ昔のままの格好、つまり木綿の磯着でしか潜らないところが熊野市の遊木です。ここでは、そうしないと鮑が絶えてしまうのですね。

 ところが、最近は海女さんの後継者がいなくなってきたために、漁を済州島の海女さんに任さざるをえなくなりつつあり、その意味ではジレンマがあります。ちなみに、通常イセエビ漁にはナイロン糸が三重に重なった網を使うのですが、遊木では昔ながらの木綿の一重網を使うのです。これもまた資源保護のための自主規制だと言えるでしょうね。

 それから済州島の海女さんによる出稼ぎ漁との関係についてですが、以前は志摩の海女さんが各地へ出稼ぎに行っていたのですね。志摩の夏磯漁というのが9月14日に終わるのですが、そうすると彼女たちは西の方、南の方へと出稼ぎに行ったわけです。

 歌手の鳥羽一郎のお母さんも海女さんなのですが、彼女も鳥羽一郎を負ぶって熊野の磯崎あたりまで出稼ぎに行っていたようで、磯崎の浜のお年寄りと話をすると、「昔、鳥羽一郎のおむつを替えたことがあるよ」などという話がたくさん出ますね(笑)。

 つまり、当時から海女さんはよく移動していたし、そうした中で浜から浜へと潜り漁の技術も伝えられたと思うのです。


※拓海広志;

 日本の浦々の文化を見ていて面白いのは、距離的に近いところにある浦と浦であっても、その間に大きな山があったりすると、その浦同志の文化的つながりが稀薄になることがあったり、逆に距離的に離れた浦同志が海の道を通じて真っ直ぐつながることがあるということですね。


※川口祐二;

 そうなんです。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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