共同討議「アジア太平洋の海と島(5)」

 1999年の5月に新西宮ヨットハーバーで、『アジア太平洋の海と島』と題するシンポジウムが開催されました(主催:アルバトロス・クラブ)。今回は、その中で行われたパネル・ディスカッション(パネラー:森拓也、長嶋俊介大森洋子、川口祐二さん。司会:拓海広志)の内容を紹介させていただきます。


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※拓海広志;

 ありがとうございました。人が移動しながら如何に環境に適応していくか、あるいはそもそも人は何故移動するのだろうかといった話が、ジーナという自然を読み取る力を持った女性を軸にして描かれているのが『石の環』だという話をしていただいたわけですが、太古の人々が移動する際に、自然に対して非常に感受性の豊かな人がいて、進むべき方向を示唆するという力は非常に大切なものではないかと思います。

 屋久島の星川淳さんが訳された本の中に『一万年の旅路』(翔泳社)というものがあるのですが、これは北米インディアンであるイロコイ族の間で1万年にわたって語り継がれてきたという、彼らの祖先の移動をめぐる物語です。この本も『石の環』とは響き合う点が多々ありますので、ご紹介しておこうと思います。大森さん、どうもありがとうございました.。

 最後になってしまいましたが、川口祐二さんをご紹介いたします。川口さんの肩書きは民俗学者ルポライターとなっておりますが、大学に籍を置く研究者ではなく、宮本常一さんの民俗学を継承すべく独自のフィールドワーク、ご研究をされている方です。

 今日、私は参考文献として『サメを食った話』(光出版)という川口さんのご著書を持ってきたのですが、川口さんはそれ以外にも日本の漁村を歩きながら人々の生活文化を綴った本をたくさんお書きになっています。特にご自宅が三重県の南勢町というところですので、今日は私にとっても重要な活動フィールドの一つである伊勢・熊野の海の話を中心にお話ししていただければと思います。川口さん、よろしくお願いします。


※川口祐二;

 川口でございます。他のお三方のお話は非常にスケールが大きかったのですが、私は拓海さんが紹介してくださったように宮本常一さんの真似をしながら日本の漁村をとぼとぼと歩いているもので、そうした旅の写真を見ていただきながらお話をいたします。

 私は熊野灘に面した漁村で生まれ育ったのですが、そこで幼い頃から椰子の実をよく拾ったのですね。台風の後には必ず椰子の実が浜に転がっていまして、そうしたことから黒潮の流れのことや太平洋の向こう側に対する関心はありました。その後ずっと大人になってから柳田国男の『海上の道』という本を読んで「ああこれだな」と合点がいき、さらに関心が深まっていったような次第です。

 今、黒潮と申し上げましたが、今日お話しするのは三つほどありまして、一つは真珠養殖の技術がどのように伝播されていったのかということ、それから私の故郷の産物である鰹の漁や鰹節加工の技術の伝播について、そしてもう一つは志摩の代表的な漁業である海女漁についてです。海女には男の海士と女の海女がありますが、一般的には海女というのは女性の仕事ですね。志摩半島の海女は有名ですが、彼女たちの技術も日本各地に伝えられているのです。

 それでは、スライドを映します。少しわかりにくいのですが、これは私の町にある五ヶ所湾の真珠養殖場です。自然の海岸の近くで、波静かなきれいなところでないと貝は育たないのですが、ここや英虞湾で発祥した真珠養殖は西の方へ伝播しまして、徳島、愛媛、長崎、熊本、そして沖縄へと拡がっていきました。

 次の写真は沖縄の石垣島ですが、これが日本の真珠養殖の一番南ではないかと思います。また、真珠養殖技術の伝播に関して忘れてはならないのは対馬です。現在、ここで一番良い真珠が採れるんですね。

 真珠養殖と言いますのは、アコヤ貝を入れた籠を海に沈めて、真珠を作るわけですが、真珠を養殖する技術は北海道へも伝えられており、それは帆立貝の養殖に転用されています。北海道の虻田町というところの漁協の人たちが志摩ヘ旅行に来まして、その時に杉の木の枝を束ねて海の中へ入れると、それに真珠貝の稚貝が付くという話を聞いたそうです。それで、そういう技術が虻田町に伝わり、やがてそれは北海道の日本海側にまで拡がっていったのですね。

 苫前町では、女たちが大小選り分けた稚貝を船に積み込みます。そして、ここは五ヶ所湾のように入り組んだ海岸線ではありませんので、外洋で私どもがやってきたのと同じような養殖筏で帆立貝を養殖するのです。また、オホーツク海の猿払というところでは海底に種をまくのですが、それから5年ほどすると立派な形の世界一美味しい帆立貝が採れるわけです。海ではこんな風に技術が次から次へと伝播していくのですね。

 次は二つめのテーマになりますが、私どもの特産の鰹です。今日の夕方の懇親会で供されるのは鰹ではなく、カジキのようですが(笑)、鰹は生で食べる以外に、鰹節にもされます。この技術がやはり黒潮に乗って、ずっと北の方へ伝わっていきます。鰹節作りは土佐が発祥地だと言いますが、その南に枕崎がありますので、ひょっとするとインド洋由来かもしれません。こうなってくると、まさに「海上の道」ですね。

 鰹節を作って保存食にするという日本の知恵も一つの文化だと思うのですが、ここで「さばく」という技術が出てきます。鰹節をさばく時には手でやるわけにはいきませんので、道具が必要になります。それには様々な道具があるのですが、今日私はそのうちの一つを持ってきましたので、後で見てください。

 私の家も元は鰹節を作っておりまして、これは海の博物館へ寄贈したものですので番号札がついていますが、子供の頃に家の手伝いをした時に使った道具です。柄は粗末なものですが、ちゃんと松の枝を使って滑らないようにしてあります。他の木だと油があって滑りますから、ざらざらしたものがいいんですね。そして、鰹の大きさによって刃の部分の幅が広がったり縮まったりして調節ができ、一回で背鰭が取れるのです。こういうものを改良しながら、技術が各地に伝わっていったのですね。

 鰹節の技術は土佐から徳島へ伝わり、徳島から和歌山へ行き、さらに三重の熊野灘、特に志摩半島の波切というところに至り、それから今度は静岡へ伝わりまして、静岡から千葉、茨城、宮城、岩手へと伝わります。岩手県の種市あたりへ行きますと、鮑を乾燥させる技術があるのですが、それがどうも鰹節の技術から移転されたもののようですね。

 私は種市の浜の納屋へ行っていろいろと見させてもらったのですが、一個で3千円ほどするものがずらっと並んでいました。で、そこでは鮑を乾燥させる道具のことを蒸籠(せいろ)と呼んでいるのですが、これは元々鰹節を並べて乾燥させるのに使われていた道具です。それで私が「これは三重県の蒸籠と同じですね」と聞いたところ、「実はそうなんです」とそこの旦那さんが言っていました。

 「これは波切から来たものですね」と言いますと、「そうです」と言います。波切で作られたものと、私の生まれた育ったところのものでは、この蒸籠に付いている刻みの部分の傾斜具合が違うから分かるのです。

 よくよく聞いてみると、この旦那さんの家もかつては鰹節を作っていたそうで、ですから種市まで三重の鰹節文化がずっと伝わっていたことが分かったのです。また、鰹節を作る時にはまず練習をするわけですが、その時に使われるのが桐の木なのですね。この旦那さんの家にも練習に使われた桐の木がありましたので、私は大変感銘を受けました。

 ちなみに、「この鮑は全部でいくらですか?」と旦那さんに聞いたところ「うん億円だ」と言っていましたよ。これらは全部香港の方へ輸出されて、それから改めて神戸の中華街へ輸入されるということです。

 次の写真は玄界灘の鐘崎というところです。昔、ここの海女さんは腰巻きではなく、褌をしておりまして、それが今ではここの重要文化財になっています。女の褌がどんなものか見たければ、新幹線で博多まで行って、鐘崎まで行くと、ちゃんと重要文化財として展示してありますから、一度見てみてください。それからこれはその当時の海女さんのかぶりもりものです。当時はこんな格好をして潜り漁をやっていたわけですね。

 鐘崎では海女さんが使う桶のことを伊勢丸と呼ぶことがありまして、伊勢地方とのつながりがうかがえます。こういう話を聞いていると、やはり海の道というのは、人や技術を随分遠いところまで運ぶものだなあと感じます。この鐘崎の海女さんの技術にしても、次は山口県油谷町に伝わっていますし、それはさらに鳥取県青谷町の夏泊に伝わっています。志摩には約二千人の海女さんがいますが、実はそれ以外の地方にも海女さんは大勢いるのですね。

 次はその油谷町からずっと東へ行きまして、3年ほど前に例の原油流出騒ぎがあった福井県です。そこの安島というところの海女さんです。ちょっと私どものところとは、服装が違いますが、使う道具も少し違います。その次は能登半島の先にある舳倉島の海女さんですが、何とも抱きつきたくなるような美人でした(笑)。で、彼女たちが使う道具も、先ほどの安島の海女さんの道具とは違いまして、これはむしろ志摩で使われているものに近いですね。

 次は海女のメッカ・志摩半島和具の海女さんでして、非常に伝統的な服装がこれです。それから次は岩手県久慈の小袖の海女さんです。ここでは7人ぐらいがグループを組んで観光海女漁をやっています。

 こんな風に一口に「海女」と言っても、様々なスタイルがあるのですが、小袖は本当に辺鄙なところにありまして、そんな場所で海女さんたちによって、鮑やサザエは採られているのですね。今の西宮浜では鮑は採れないだろうと思いますが(笑)。

 少し駆け足ではありましたが、日本各地の海を渡った技術、文化、また人とモノの関係をさっと眺めてみました。とりあえずは、このあたりで終わりにしたいと思います。


※拓海広志;

 どうもありがとうございます。日本の漁業を中心にした文化の伝播について川口さんにお話しいただきました。

 一つ川口さんにお聞きしたいんですが、日本の海女には男の海士と女の海女がいますよね。先ほど東南アジアの漂海民の話がでましたが、彼らの中には女の海女はおりませんで、みんな男が潜るのです。日本では両方が潜っているわけですが、それは地域とかによって違うのでしょうか?


※川口祐二;

 日本では女の方が圧倒的に多いですね。どうして女性が潜るのかと言いますと、女性の方が息が長いんだそうですよ。ただし、最近は男の潜り手が増えておりまして、志摩半島にも海士がよく見られるようになりました。

 ところが、種族維持というか、資源保護のためには女性の方が良いようで、海女は海底でひっくり返した石を必ず戻すのに、海士の方はやりっぱなしで、磯が荒れるのだそうです(笑)。

 それから、私が生まれた度会郡というところは海女がいないところでして、それが一山越えて志摩郡へ行くと女ばっかりなんです。そういうことから言えば、確かに地域性もありますね。


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