拓海広志「何故かシンガポール(2)」

 これは今から7〜8年ほど前、シンガポールに住んでいたときに書いた通信文ですが、少し紹介させていただきます。ちなみに僕はこれまでに神戸、シドニージャカルタ、上海、シンガポールの五つの街で暮らしてきました。。。


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 シンガポール暮らしもようやく落ち着いてきたので再開したこの通信だが、第1話に対していくつかのコメントをちょうだいした。こんなふうにコメントをいただけると励みにもなるし、それをもとにまた話を発展させることができるので、ありがたい限りである。最初にいただいたコメントは長崎の小値賀島で自然学校を運営するNさんからのものだ。


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※Nさんより・・・
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 シンガポールは、そんなに世知辛いのですか? 最近の日本では、子殺しの母親がちょくちょく捕まったりして、「分からんなあ」と思うけど、それでもお互い理解できる範囲で暮らしているんでしょうね。


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※拓海より・・・
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 「シンガポールは世知辛い」。言い得て妙である。何しろ端から端まで高速道路を走れば1時間強ほどの小さな島に300万を超す人々が住んでおり、そこには天然資源もなければ、また食料品や生活物資の大半を輸入に依存して成り立っているわけだから、常に世界の動きを敏感に察知しながらサバイバル戦略を立てて行くというのがシンガポールという国家の基本姿勢とならざるをえない。それだけに政府はあたかも企業の如く、自国民を人的資源として捉える傾向があるのだが、そうしたことがシンガポールの世相を少々世知辛いものとしているのかも知れない。

 シンガポール政府は人的資源の活用のために、国民の教育については非常に力を入れているのだが、それは一言で言うと徹底したエリート選抜のためのものであり、その選別は小学生の頃より段階的に行われていく。そこから落ちこぼれた人はなかなかリターンマッチのチャンスを得ることが出来ないので、大器晩成型の人や、学校の勉強以外の面で才能を持っている人にとっては、いささか難しい点があると言わざるをえない。こうした中で特に華人系のシンガポール人は学歴というものを非常に重視するし、ある程度以上の学歴を持つ人が他人を評価する際にも、その人が「Educated」であるか否かを云々するのは日常的に見られることである。

 最近読んだ『経済ってそういうことだったのか会議』という本に、船が沈没する間際に船長が女性と子供を優先的に救命艇に乗せるために、どう乗客を説得するかという定番のジョークが紹介されていた。船長は最初にイギリス人のところへ赴き「ジェントルマンならばそうしてください」と諭し、次にアメリカ人のところへ行って「英雄になりたければそうしてください」と持ち上げ、ドイツ人に対しては「これはルールだから従ってください」と話すが、最後に日本人のところへ行って「皆がそうするのだから従ってください」と告げるというのがオチである。このジョークでいくとエリート意識の高い華人シンガポール人を説得するには「教育があるのならばそうしてください」と諭すのが効果的ということになろうか。

 それにしてもこれだけハッキリとした学歴社会になると、エリート選抜競争から落ちこぼれた人たちの中に劣等感や閉塞感が生じることはあり得るだろう。勿論、シンガポール政府は国民の福祉や生活環境の整備については非常に力を入れているので、貧しくても住む場所のないような人はいないし、学歴がない人に対しても相応の仕事が用意されており、その点においては実に素晴らしいと言える。だが国民の生活保障に関する基本的な問題を解決したシンガポールがこれから取り組まざるをえないのは、人々の多様な生き方や考え方を社会としてどの程度まで認め、それらに対して「場」を与えることが出来るかということだろう。そのことが21世紀のシンガポールを活き活きとしたものに出来るかどうかの鍵を握っているように思える。


 続けて、友人のSさんが朝日新聞に掲載された「ポイ捨て問題の根」という記事を転送してくださった。


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朝日新聞記事より・・・
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 人口約300万人の86%が公共団地に住むシンガポールで高層階の窓からゴミをポイ捨てする人が後を絶たない。政府が今月、捨てた人を家族ごと強制退去させる措置を発表したため、国民から「厳しすぎる」と反発も出て、騒ぎが大きくなった。ポイ捨ては、政府による団地への「移住政策」が招いた現象ともいえ、根が深い。

 電子レンジ、木製のいす、米袋。地元紙は、地面に散乱する落下物の写真を掲載し、危険防止を訴える。罰金で路上にツバを吐くことを規制するなど、「清潔」が売り物の国だけに、異様な光景だ。人口過密でプライバシーの不足がらくるストレス説などが原因として指摘されている。人が多いとはいっても、シンガポールの家の平均的なサイズは3LDKタイプで100平方メートルほどあり、日本よりかなり広い。ポイ捨ては、社会全体の「団地化」で地域社会が崩壊した影響が大きいようだ。

 政府は1960年代から、スラムなどを壊し、代わりに公共団地を造成した。華人、マレー、インド系など民族ごとにモザイク状に住んでいたのを、団地内で混住させた。新興国として、「シンガポール人」という国民意識を育てるのに役立ったと言われる。80年代末から異民族間の住居転売も規制され、各棟の住民が華人約8割、マレー系約1.5割など国の民族構成比と同じになるように配慮されている。

 政府は団地造成とともに、地域社会復興のため住民組織を作った。その一つの「住民委員会」は旅行やカラオケ大会などを催す。だが、ある委員会の責任者は「棟ごとにパーテイーも催すが、人が集まらない」とこぼす。治安維持のため住民が巡回する建前だが、行われていないという。「近所の目」を気にしない住民心理が、ポイ捨ての背後にはありそうだ。

 シンガポールは西欧的な個人主義に対抗するため、アジア的価値観を唱えてきた。儒教教育などは捨てられてきたものの、家族の重要性は今も強調される。家族ぐるみの退去措置には、そういう事情もある。


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※拓海より・・・
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 地域社会が崩壊したために「隣は何する人ぞ?」的なスタイルの人が増え、それがゴミのポイ捨て問題を引き起こす原因になっているというのが、この記事の論点である。強権的と揶揄されるほど明快なリーダーシップを持つ政府に率いられて、経済発展と福祉・環境維持の間で絶妙なバランスを取りながら近代国家を建設してきたシンガポールとしてはいささか残念な出来事だが、エリートとして選抜されなかった大多数の国民の中には、たとえ衣食住が確保されたとしても、何らかのフラストレーションがたまっている人が少なくはなく、それがこうした行動の誘引になっているのではないかという説明には少し首肯できる点がある。

 もっとも、他のアジア諸国と比較すると、現在のシンガポール人は非常に「公」意識、ないしは「公」に対する道徳心が高いように僕は感じている。先だってシンガポールでは17歳の少年3人が14歳の少女を2週間以上にわたって監禁し、暴行を加えたり、ストリップを演じさせたり、あげくの果てに熱湯を掛けて大火傷を負わせるという、あたかも昨今の日本と見間違うかのようなショッキングな事件があったのだが、当地の新聞は少女の火傷跡の写った写真を大きく掲載し、少年たちを厳しく非難した。裁判所は少年たちに実刑判決を下したのだが、市民の多くは少女に同情して怪我の治療のために寄付金を集めたという。

 たまたまシンガポールを訪れていた皮膚移植手術の権威でもあるドイツ人医師がこの悲惨な事件と市民の支援活動を聞きつけ、自ら少女の火傷跡を治すために執刀すると申し出たそうだが、それを受けて匿名のアメリカ人実業家(シンガポール在住)がさらに多額の寄付を申し出たという。何か問題が発生した時に不必要な回り道をせずに、問題解決に向けての最短コースを進むのはいかにもシンガポール的だが、人々の寄付活動がドイツ人医師とアメリカ人実業家の心を動かしたという点はシンガポールの人々の「公」意識の高さを示す例の一つとして紹介しておきたい。


 最後に国際交流基金小川忠さん(ニューデリー在住)からいただいたメールを紹介しよう。


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小川忠さんより・・・
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 拓海さんにはシンガポール=人口国家=無味乾燥というステロタイプ化されたシンガポール像を越えるシンガポール論を期待していますが、早くも前話で、都市問題の処理という形で、僕が知らないシンガポール国家像の片鱗を見せてくれましたね。

 先日インドから日本に帰って写真家Hさんと知り合いました。彼は日本全国の小学6年生の写真を撮った新しい写真集を出したのですが、そこで印象的なのは、「神戸のサカキバラ事件のようなことが起こると、ニュータウンが子供を疎外するとか、田舎の子供は恵まれているとか、ステロタイプされた議論をマスコミは流すが、それはニュータウンに生きる子供たちに失礼である、ニュータウンでも子供たちは悩み、考え、成長している」というHさんの後書きでした。

 Hさんはカメラを通して、一人一人の子供と切り結んでいるのだな、と思いました。拓海さんにも、そんなシンガポール論を期待しています。僕も、ステロタイプ化されたインド論を打破していきたいと思います。


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※拓海より・・・
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 さすがに小川さんの指摘は鋭い。人は新しい世界に入っていくと、最初のうちは全てのものが均質に見えてしまうものだが、時間がたつにつれてその世界の内側にある差異を発見するようになる。

 シンガポールには華人が80%、マレー系の人々が15%が住んでおり、残りの数パーセントはインド系及びその他の人々が占め、さらに多くの外国人が居住していると述べた上で、華人のスタイル、マレー人のスタイル、インド人のスタイルを云々するのはよくあるシンガポール論の基本だし、シンガポールを管理社会という側面のみから見て批判的な言説を並べるのもよく見られるシンガポール論である。

 しかし、国家としても、都市としてもこれだけの成熟を遂げたシンガポールにおいては、もっと「個」について見つめる必要があるだろうし、そこに立脚して社会を見つめ直す必要があるような気もする。その意味では、これから僕が綴るシンガポール論は、より私的な装いをしてくるかも知れない。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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