拓海広志「日本丸航海記(9)」

 これは僕が商船大学の学生だった頃、9ヶ月に及ぶ卒業航海の中で綴っていたメモのような日記です。今から20年も前の学生時代に書いた青臭い日記を公開するというのはかなり気恥ずかしく、また「そんな文章を読んでくれる人がいるのかな?」と考えると少々心許ないのですが、当時の練習船の雰囲気を知っていただく上では多少意味があると思いますので、思い切って当時の文章をそのまま活かした日記をここに転載しようと思います(ただし、友人たちのプライバシーに関する記述については削除しました)。


 ただ、今回この古い日記を読み直して気がついたのですが、当時の日常そのものだった航海のことや訓練のこと、仲間たちとの交流についてはあまり克明に記されておらず、むしろ自分の心象風景が中心に記されているようです。プライバシーの保ちにくい練習船の船内生活でもあり、当時前者の方はあまりにも日常のことになっていて、かえって書きにくかったのかも知れません。そんな半端な日記の連載ですが、当時船の中で読んでいた本、観ていた映画、聴いていた音楽などの紹介と共にご笑覧ください。


   *   *   *   *   *


★7月30日
 国際祭という一大イベントのために奔走したヒロ滞在も終り、いよいよ日本へ向けての出帆の日がやって来た。岸壁には数多くの人が見送りにやってきてくださったが、その中にはOさん一家、Kさん一家、そして武内カメラマンもいた。
 僕はOさん夫妻からお別れのレイを贈られたところを武内さんに写真に撮ってもらい、皆にお礼とお別れの挨拶をして回った。
 しばらくすると船内放送で僕にキャプテン公室まで来るようにとの呼び出しがあったので、何事かと駆けつけたら、ヒロ日系人会の会長夫妻がおみえになっており、奥さんが僕にレイをくださると言うのだ。
 理由は僕が国際演芸の夕べで司会を務めたからだそうで、「あなたが大観衆の前で上手に英語のスピーチをしてくれたので、私たち日系人も鼻が高かったのよ」と誉めてくださった。
 社交辞令とは知りつつ照れたが、奥さんによるとこの時の僕の写真は現地の新聞に出たり、街の写真館の店頭に飾られたりしているのだそうで、またまたビックリ! ちょっと恐縮してしまった。
 やがて出船の時は訪れ、僕らは最後の答艢礼のためにマストに登っていく。ここでの挨拶は「ごきげんよう!」ではなく、やっぱり「アロハ!」だ。僕らが大声で3度そう叫ぶと岸壁からは大きな拍手が湧き起こった。
 やがて本船が島陰をかわる頃にS機関長が言った。「エッティー日本丸での僕のニックネーム)、島で貰ったレイは島が見えているうちに海に流すんだよ」。
 僕は慌てて部屋に置いてあったレイを取りに行き、デッキの上から海に放り投げて呟いた。「アロハ・レイ・・・」。


★7月31日
 さっそく展帆作業を行い、帆走に入る。あと1週間で帆走を終えるとセールを取り外し(アンベンディング・セール)、様々な補修作業をしながら機走で日本へ向かうことになる。これで最後の帆走だと思うと急に名残惜しくなってきた。
 展帆作業をやっているとセスナ機がやってきて本船の上空を何度もぐるぐる旋回していたが、これは武内カメラマンの乗っているセスナで、本船が帆走している姿を空からカメラに収めているのだ。


★8月3日
 今日、僕らは実に見事な竜巻を見た。勿論、洋上で竜巻を見るのは初めてではないが、これほど大規模なものを見たのは初めてだ。
 最初に発見したのはMファーストオフィサーで、その時はまだはるか彼方の海面上で何かが起こっているといった感じだったのだが、それはアッと言う間に盛り上がり、やがてジャックの撒いた豆の木から伸びる木のようにどんどん上空へ上がっていき、やがて龍の如く天空へと達したのである。


★8月4日
 今日は帆船実習の総仕上げとしてタッキングが行われる。練習生が僅か45名という少人数ながら、今回の我々の実習はまずまずの評価を得ていた。
 タッキングは大型帆船にとっては最も難しい操船法の一つであり、これが短時間に行程ロスを最少として行われるか否かは、本船の操縦性能と乗組員の熟練度を示す指標となる。
 我々は操船法の再確認のために、H航海科専任教官から理論的指導を、またM次席一等航海士から作業手順の指導を受け直し、いよいよタッキングに挑戦することになった。
 かくて、練習生45名は汗でびっしょりになりながらデッキ上を走り回り、マストを昇り降りしたのだが、それを受けて本船はゆっくりと反転したのである。
 所要時間は約40分。行程ロスも僅かで、非常に満足できる結果を上げることができた。そして、ちょっと大袈裟だが、僕はこのタッキングの作業を終えて、このテクノロジー万能の時代に商船学校の航海科の人間が未だに帆船での訓練を受けねばならぬ理由を知ったような気がする。
 汽船での航海に比べると、帆船航海は技能的にも、体力的にも、また精神的にも数段上の能力が要求される。そして、ここには海で働く人間に必要なもの全てのベースとなるものがある。が、僕があえて指摘したいのは、帆船の上では船長から士官、乗組員、練習生など、全ての人間が単なる組織の歯車になることを絶対に許されないということだ。
 帆船の上では瞬間瞬間に誰もが自分自身の判断で動かねばならぬことがたくさんあり、それが出来ないと大きな事故につながりうる。勿論、机上の理論を頭に入れておかないとそれもおぼつかないのだが、机の上の理屈だけに基づいてそうした判断が出来るわけではない。帆船での様々な作業を通して僕らは正に身体で考えることを学んだように思うのである。
 「社会に出ると理屈だけでは通らない」なんてよく聞くけれど、僕は学生時代にやった幾つかの企業でのバイトなどを通して、机上の理屈だけを格好良く並べてうまくやっている人もたくさんいることを知った。
 だが、そういう人たちからは生身で生きている人間の凄みとか手応えは伝わってこなかった。恐らく彼らの仕事はごく限られた「仲間内の約束事」の中でしか通用しないものなのではないだろうか?
 帆船に乗って、海という自然に真っ向から立ち向かってみると、そのことを素直な実感として感じることができる。そして、これは何も舞台が海でなく、他の場所でも同じことが言えそうに思うのだ。


★8月6日
 いよいよ畳帆作業に入り、帆走は終了する。名残惜しいが仕方がない。舷側から海を見るとマンボウがプカプカと浮かんでいた。お前も名残惜しいか?


★8月7日
 アンベンディング・セール。セールを全てヤードから取り外して畳み、セールロッカーに収めるのである。1日がかりの大仕事となったが、セールの取り外された本船は骸骨のようで寂しい。この航海ももうすぐ終りなのか・・・。


★8月8日
 ブラックダウンの準備に入る。ブラックダウンとは我々がマストへの昇り降りに使ったシュラウド(縄梯子)などに強化のためのタールを塗りこむ作業のことだ。
 これを行うと、上からタールがポタポタと落ちてきてデッキやハウスが汚されるのだが、デッキ上は常時海水を流すことで何とかなるものの、ハウスには全てカバーを掛けて守ってやらねばならない。今日の作業はそのカバー掛けと、足場のない高所でタール塗りをするために使うボースンズ・チェアの使い方の指導を受けた。
 なお、本日本船は日付変更線を通過して東経へ入ったため、8月9日はスキップする。


★8月10日
 いよいよ最後の大仕事であるブラックダウンを行う。高所作業にはもう慣れたとは言え、ボースンズ・チェアを使っての作業は勝手が異なる。それでも1日がかりで作業は終り、皆タールで全身真っ黒になった。


★8月11〜12日
 殺生な話だが、2日続けての下船試験(正確には商船大学乗船実習科の終了認定試験)。


★年8月13日
 船内新聞「風まかせ」の第7号を発行。今回はM通信長に「忠犬ハチ公」に関する話を寄稿していただいた。僕は、戦後初めて太平洋を渡った我々の先輩たちが残した『日本丸航海記』(舵社)についての書評を書いた。帆船航海での体験や感動についは時代を超えて共通するものがあるのだが、彼我間における最大の違いは、海の彼方にある外国についての思い入れの度合であるような気がする。当時の練習生たちがアメリカの土を踏むことに対して感じた様々な思いを理解しておきたい。
 ところで、僕は10歳台で日本全都道府県を旅してきたのだが、その後は主としてアジア太平洋地域をバックパッカーとして巡る旅をしてきた。そこでの様々な体験により、異文化とは自分の回りにある全てのもののことであり、同時に自分自身のこころと身体の狭間にも違和が存在することを認識することができた。こうした異質性を認め、受け入れていかぬ限り、僕らの世界は息苦しいものとなり、やがて僕らは生存できなくなってしまうだろう。
 そんな中で、僕自身はできるだけ自然体で生きたい思う。が、反動倫理主義的な、あるいは似非宗教的な反都市論、自然回帰論を僕はまったく信じない。人間はその存在自体が反自然的で不自然な生物なのである。そう認識した上で僕らは「世界」に対してどんなスタンスを取るべきなのか?
 そうした観点からこそ僕は「自然体」と言うのだが、それは自分自身の極私的で身体的な体内時間と、より普遍的で抽象度の高い世界時間の双方に対して、自分の思考が自然な速度を獲得できているかどうかということが要点になりそうだ。
 いかん! そんな難しいことを考えていたら、頭が痛くなってきたので、星空でも眺めながらビールを飲んで、寝〜ようっと!


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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