拓海広志「日本丸航海記(7)」

 これは僕が商船大学の学生だった頃、9ヶ月に及ぶ卒業航海の中で綴っていたメモのような日記です。今から20年も前の学生時代に書いた青臭い日記を公開するというのはかなり気恥ずかしく、また「そんな文章を読んでくれる人がいるのかな?」と考えると少々心許ないのですが、当時の練習船の雰囲気を知っていただく上では多少意味があると思いますので、思い切って当時の文章をそのまま活かした日記をここに転載しようと思います(ただし、友人たちのプライバシーに関する記述については削除しました)。


 ただ、今回この古い日記を読み直して気がついたのですが、当時の日常そのものだった航海のことや訓練のこと、仲間たちとの交流についてはあまり克明に記されておらず、むしろ自分の心象風景が中心に記されているようです。プライバシーの保ちにくい練習船の船内生活でもあり、当時前者の方はあまりにも日常のことになっていて、かえって書きにくかったのかも知れません。そんな半端な日記の連載ですが、当時船の中で読んでいた本、観ていた映画、聴いていた音楽などの紹介と共にご笑覧ください。


   *   *   *   *   *


★7月8日
 最後の上陸日。また午前中はジョギングに汗を流し、午後からは何人かの仲間と連れ立ってオークランド球場へ行き、アスレチックスとタイガースの試合を観る。
 大リーグの球場はグランドとスタンドが近く、日本の球場よりも臨場感がある。僕は小学校時代に「垂水メッツ」なる草野球チームを作って遊んでいたこともあるので、かつての野球少年時代を懐かしく思い出しながら試合を楽しんだ。
 球場から戻る地下鉄の中でT君と会ったら、財布を落として困ってるんだと言う。聞けばかなりの大金なので、彼のために駅員に尋ねると、そこから6つ先の駅で女性から落し物の財布が届けられていることがわかった。
 僕らが急いでその駅に駆けつけて確認すると、それは間違いなくT君のものだった。駅員は「ほとんど奇跡に近いよ」と言っていたが、本当にそうだろう。良かったね!
 それから僕はT君と別れ、サンフランシスコ最後の夜を一人で楽しむため、またブロードウェイのジャズクラブへ行った。
 この夜はカウンター席で隣り合わせに座ったネービーの黒人と意気投合し、ジャズの話で盛り上がった。彼はマイルス・デイビスやセロ二アス・モンクのようにパッションを正面からぶつけてくる黒人ジャズマンよりも、ビル・エヴァンスのように自制的なジャズが好きだと語っていた。


★7月9日
 1週間のサンフランシスコ滞在は終り、今日は出港日。岸壁には見送りの人が大勢やってきてくれ、僕らは海外で初めての答艢礼を行う。
 やがて今年で完成から50年になるというゴールデンゲート・ブリッジをくぐりぬけたところで、米海員学校の小型練習帆船が待ち伏せしていた。
 小型帆船がデッキ上に置かれた大砲で別れの空砲を撃ってきたので、我々は慌てて舷側に整列し、答舷礼を返す。ありがとう、海の仲間たち、そして、さらば、サンフランシスコ!


★7月12日
 展帆作業を終え、再び帆走を開始する。日本から米西岸へ至る往航とは異なり、帰りの航海は貿易風任せにしていれば、さほど頻繁にヤードの角度を変えたりしなくても、いつの間にかハワイ、日本近海にたどり着けるので、かなり楽である。アリューシャン沖の濃霧帯を航海した往航とは違って、天気も快晴・順風続き、海水の色も南国特有の濃い群青が目にしみて、何とも爽快な気分だ。
 練習生の中にも様々な意味でゆとりが生まれてきたせいか、ワッチや各種作業の合間を縫ってクラブ活動に励む者が増えてきた。特に我々がこれから目指すハワイ島のヒロでは年に一度のビッグ・イベントである「国際祭り」の準備が進められており、本船はそれに花を添えると共に、我々も日本代表として種々の催しに参加することが決まっているため、その準備に追われる者も多い。
 我が柔道部は勿論のこと、剣道部、相撲部には現地の大学生との対抗戦も予定されているので、稽古にも急に熱が入り始める。南海の夕陽に頬を染めながらデッキの上に敷き詰めた畳の上で柔道の稽古をするのは最高に気持ちが良いが、まだエネルギーの余っている僕はいつもその後はデッキ上をジョギングして過ごす。そして、これがまた爽快なのだ。
 そんな中で我が新聞部は船内新聞「風まかせ」の第5号を発行した。今回は船医のYさんが咸臨丸の航海について寄稿してくださったが、僕はジャズエッセイ「Way Out West」と、田沼意次遠山金四郎の関係についての歴史エッセイを寄稿した。勿論、Cさんのエッセイも健在で、サンフランシスコで僕が案内したブロードウェイのジャズクラブについての話を書いてくれた。


★7月14日
 穏やかで気持ちの良い航海が続いてはいるが、どういうわけか僕らの班にはずっとヨンパー直が続くため、ワッチ中の作業はなかなか厳しい。しかし、そんな生活の中でも僕は中編小説『海峡物語』を書いたりして過ごしていた。一方、ハワイ島で寄港するコナとヒロで予定されている歓迎レセプション用にまた新しい芝居の脚本も書かねばならず、多忙に変わりはない。
 サンフランシスコで演じた芝居「親子酒」がバカウケだったので、今度はもっと徹底的にギャグ路線でいこうと思い、「ザ・ドリフターズ風・忍者喜劇」をやることにした。しかし、色々と浮かんでくるアイデアをようやく一つのストーリーに纏め上げると、今度はその練習と衣装作りに励まねばならない。幸い衣装作りの方は手先が器用なW君に任せることができたが、忍者喜劇だけにアクションの方も大変だ。
 メンバーはY君(弟子の忍者A)、W君(同B)、O君(同C)、S君(敵:カンフーの達人)、N君(敵:酔っ払った居合の達人)、H君(謎の娼婦)、そして僕がいかりや長介よろしく忍者の師匠である。他の班がマジメに歌や踊りを練習する中、僕らは何故かいつも少し外してしまうのだ。


★7月16日
 快晴の下、運動会が催される。激しく、爽やかに盛り上がった楽しい会で、僕は何だか白昼夢を見ているような不思議な気分になってしまった。それにしても朝のヨンパー直をこなした後、9時から16時まで運動会、それからすぐに夕方のヨンパー直に入った僕らの班にとっては、さすがにきつい。
 それでも夕方のワッチを終えて風呂に入った後のビールは、この世にこんなに旨いものは他にないと思えるほど美味しい。帆船の遠洋航海は所用日数が長いため風呂の湯には海水を使い、上がり湯だけに真水を使うことが許されているのだが、日本近海とは違って海水自体がきれいなため、この海水湯はなかなか爽快である。
 また、熱帯域を航行中は日に何度かはシャワーと遭遇するのだが、その度に僕らは素っ裸になってデッキに上がり、天然のシャワーを全身に浴びる。これもまた気持ちの良いもので、海水湯と並んで忘れられない思い出となりそうだ。


★7月19日
 西岸からハワイへ向けての航海にはずっと数匹のイルカが本船についてきている。夜中に缶ビールを持ってこっそりとデッキに上がり、満天の星空の下で飲んでいるとイルカたちが奇妙なほど官能的な声で鳴き始める。それはなんとも幻想的で、僕の頭には「イルカ☆My Love」というタイトルの掌編小説のアイデアが生まれたのだが、これは日本丸の胎内でしか書けなかったものだろう。
 ところで、今日は「風まかせ」第6号の発行日。僕は筒井康隆山口昌男滝田ゆう氏の著作についての書評を掲載し、他にはボースンのKさんがハワイ島の火山の火口に住むというボースン鳥にまつわる話を寄稿してくださった。それはかつて北斗丸での航海の際に真っ白なボースン島が怪我をして船に舞い込んできたので、皆で介抱してやったという話なのだが、そう言えば僕らが北斗丸で航海していたときにも傷ついたアホウドリが船に飛び込んできたので、皆で介抱してやったことがある。
 西洋では昔からアホウドリは海で死んだ船乗りたちの魂が乗り移っていると言うのだが、ボースン鳥という名前にしても同じことを連想させるものがある。大空を滑空するアホウドリの雄姿は見事だが、彼らは風がないと全く空を飛ぶことができず、陸の上では不器用でさえあることから、たぶん帆船や帆船乗りとの共通性を連想したのではないかと思うのだが、傷ついた彼らが臆することもなく船の上に降りてきたというのは何とも不思議な話である。


 ※関連記事
 拓海広志『イルカ☆My Love』


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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