拓海広志「日本丸航海記(6)」
これは僕が商船大学の学生だった頃、9ヶ月に及ぶ卒業航海の中で綴っていたメモのような日記です。今から20年も前の学生時代に書いた青臭い日記を公開するというのはかなり気恥ずかしく、また「そんな文章を読んでくれる人がいるのかな?」と考えると少々心許ないのですが、当時の練習船の雰囲気を知っていただく上では多少意味があると思いますので、思い切って当時の文章をそのまま活かした日記をここに転載しようと思います(ただし、友人たちのプライバシーに関する記述については削除しました)。
ただ、今回この古い日記を読み直して気がついたのですが、当時の日常そのものだった航海のことや訓練のこと、仲間たちとの交流についてはあまり克明に記されておらず、むしろ自分の心象風景が中心に記されているようです。プライバシーの保ちにくい練習船の船内生活でもあり、当時前者の方はあまりにも日常のことになっていて、かえって書きにくかったのかも知れません。そんな半端な日記の連載ですが、当時船の中で読んでいた本、観ていた映画、聴いていた音楽などの紹介と共にご笑覧ください。
* * * * *
★6月22日
相変わらず10〜14ノットの早い速力で本船は前進を続けている。この分だと航海前半の遅れを取り戻し、帆走のままランド・フォールできそうである。
ランド・フォールとは船が陸を見ることができるところに達することで、そこで遠洋航海は終了し、沿岸航海に移る(ただし、昨今の航海においては陸岸がレーダーに映る圏内に入った時点でランド・フォールとするケースが多い)。
★6月23日
サンフランシスコ到着を目前にして、Mファーストオフィサーから現地で予定されている歓迎レセプション用に各班で趣向を凝らした出し物を用意しておくようにとの達しがあった。そこで僕らの班は落語の「親子酒」を無声芝居でやることにした。つまり、役者はステージ上でパントマイムをし、昔の無声映画のように僕が英語で講釈をするのである。
僕が脚本を書き終えるとさっそく休憩時間を利用して練習が開始されたが、役者を務めるのはH君(父親)、Y君(息子)、O君(息子の嫁)、W君(うどん屋の親父)、S君(うどん屋の客)、N君(郵便ポスト)で、皆の息はかなり合っているから、なかなか面白くなりそうだ!
★6月24日
既に当直外の時間を利用して相撲部や剣道部は練習を開始していたが、我が柔道部も畳をデッキ上に上げ、ハワイのヒロで予定されている日米親善試合に向けての特訓を始めることにした。
柔道部の内情を言うと有段者は僕とN君の2人だけというやや寒い状況。しかし、穏やかな夕方にデッキ上の僅かなスペースに畳を敷き詰めて、海に沈む夕陽に照らされながら柔道の練習に励むというのも気持ちの良いものだ。
★6月28日
いよいよサンフランシスコが眼前に迫り、本船の化粧直しが開始される。
我が新聞部は定期刊行物である「風まかせ」第4号に加えて、私家版の「サンフランシスコ・ガイドブック」も刊行した。このガイドブックには僕が邦訳した「ニューヨーカー」所収の短編小説や、女子学生のCさんの手による「超ミーハー観光ガイド」も収めてあり、なかなかバラエティに富む内容となった。
★6月30日
ついにランド・フォール! 帆走を終えて畳帆作業に掛かる。ここからサンフランシスコ港までは機走で進むのだ。
このあたりの海域には非常に海獣類が多い。体長が20メートルほどあるマッコウクジラが本船の左舷舷側からほんの10メートルほど先まで接近してきたのにはビックリしたが、アザラシやアシカはそこら中に泳いでいたし、ラッコも目にすることができた。
そして、帆立クラゲの墓場ではないかと思えるほど無数の帆立クラゲが浮かんでいる無風海域を通り過ぎ、今や待望のシスコは目の前である。
★7月2日
ゴールデンゲート・ブリッジが見えてきたという報告に全員がデッキ上に飛び出したが、誰もが入港準備作業と本船の化粧直しに忙しい。何しろ本船は日本を代表する「美女」だ。あまりみっともない姿では人前に出せない。
やがてパイロットが乗船し、各員はそれぞれの入港配置部署についた。アメリカ人の中には数代前の自分たちの祖先がイギリスから帆船で渡ってきて建国したことに対して自負と郷愁を抱く人が多く、それだけに彼らの帆船に対する関心の高さと愛情の深さは大方の日本人の比ではない。このパイロットもなめるような目つきで本船上の様々な設備をじっくりと見ていた。
かくて本船は35日ぶりの陸であるサンフランシスコに到着した。係留地は観光港であるフィッシャーマンズワーフで、街に出るには便利な場所だ。着岸するや否や、日系人会の代表者や新聞記者、雑誌記者らが押しかけてきた。
僕らは船長が主催するレセプションの為に後部甲板や通路に天幕を張る仕事をしながら、上陸許可が出るのを待っていた。しかし、ランディング・パーミットの入手に時間が掛かり、総員上陸許可が出たのは15時過ぎのことだった。
僕はいつも初めての街に来たときはそうするように、一人でぶらぶらと街中を歩き回ることにした。フィッシャーマンズワーフを抜けて大通りに出て、そこからケーブルカーに乗る。
サンフランシスコの街はこのケーブルカーを使って南北に縦断することが出来るのだが、それは急な坂をひたすら上がり、頂上に達したら再び急な坂を下って行き、やがてマーケット通りという大通りに達する。つまり、この街は小高い丘の上に作られているわけだ。
僕はケーブルカーの終点となるパウエル通り駅まで行き、そこからマーケット通り、ユニオン・スクエア、チャイナ・タウン、ブロードウェイなどを散歩してみた。そして感じたことは神戸やシド二ーと似た空気をしているなということであった。
三つとも国際的な港町だから似ていて当たり前なのだが、とても開放的な空気が漂っていて、観光でわざわざ訪ねていくほどのものはないけれど、住むには良い街だなあということである。神戸で生まれ育ち、シドニーでも暮らしたことのある僕としては、チャンスがあればサンフランシスコにも住んでみたいと思う。
僕はブロードウェイで見つけたジャズ・クラブに入り、バーボンを飲んだ。店内はあまりきれいとは言えなかったが、客の数は多く、演奏しているバンドのレベルも高かった。
この店はレストランのBGMとして生演奏をさせるといった類のところではなく、ジャズ道場的な性格を持っているようで、楽器さえ持参すれば誰でもセッションに参加できるというフリーセッションタイムが1時間ほどあり、それまで客席に座っていた若い連中が次々にステージに上がり、演奏に加わっていくのは見ていて楽しかった。彼らはこうしてプロに混じって自らの演奏技術を磨き、やがてそのうちの何人かはプロとしてステージに立つのかも知れない。
★7月4日
夕方、散歩上陸許可が出たので、S君と共に海洋博物館へ行く。若き日の堀江謙一氏が「太平洋ひとりぼっち」で西宮からサンフランシスコまで渡った際に使ったヨット「マーメイド」が展示されていたことに感動した。
★7月5日
一般公開日。アメリカ人はヨーロッパのイギリス人、オランダ人、スペイン人、ポルトガル人、フランス人、あるいはオーストラリア人などと同様に帆船に対する愛着が強い。この日も随分たくさんの人が訪船してくれたが、誰もが船や海についての基礎的な知識を持ち合わせた上で様々な質問をしてくることにビックリした。
この一般公開中に僕は雑誌の取材などに引っ張り出されてインタビューを受けたりしたのだが、こういう体験をするのもなかなか面白い。
夕方、散歩上陸許可が出たので、往航中に新聞部を盛り上げてくれた女子学生のCさんを誘って食事に行くことにした。
彼女からの「怪しげな繁華街に連れていってほしい」というリクエストを受けてのことだ。チャイナタウンで食事をしてから、先日見つけたジャズ・クラブへ行き、彼女はロングアイランド・ティーを、僕はバーボンを飲む。今夜のバンドの演奏は素晴らしい。
Cさんが「あなたの尊敬する人は誰?」と聞いてきたので少し戸惑った。僕は誰と付き合ってもその長所しか見ないし、その意味では誰に対しても尊敬できる点、学ぶべき点があると思っているのだ。
「そういう話じゃなくて、例えば歴史上の人物で好きな人とか、魅せられる人という意味よ」と彼女が言うので、また頭を抱えてしまった。そういう人は多すぎるのだ。
彼女があえて日本史上の人物の中から3人に絞れと言うので、坂本龍馬と白洲次郎と即答した上で、あと1人の名前がすぐには浮かんでこなかったのだが、「たぶん織田信長かなぁ〜」と言った。龍馬と白洲には納得していたCさんだが、信長には怪訝な顔をしていた。
この3人に共通しているのは既存の観念や思想に縛られることなく、同時代の「世界」に対して国という枠組に縛られることなく、個として真っ向から立ち向かっていった、つまりただの「国際人」ではなく、「グローバル精神」の持ち主だったということで、その点に僕は惹かれる。
しかし、人間臭い逸話の多い龍馬や白洲に比して、信長は残酷で独断的な為政者、権力者というイメージが伴うので、彼女が怪訝な顔をするのもよくわかる。僕だって思いつきで言っただけのことで、別に信長の人格を尊敬しているわけではない。
でも「ちょっと待てよ」とも思う。信長につきまとう負のイメージはどうも日本的村社会の中で捏造され、誇張されてきたものではないかという気もするのだ。
信長の家臣たちはいつ彼の逆鱗に触れて、殺されるかも知れないと怯えながら暮らしていたという。しかし、戦国という非情な時代であれば、それは多かれ少なかれあった話だろうし、それよりも何故諸国から優秀な異能者たちが彼のもとにはせ参じ、信長家臣団という他に類例を見ぬほど士気の高い機能集団が作り上げられたのか、そのことの方に僕は興味がある。
冷酷な独裁者の下にこうした人たちが集まってくることは決してありえないことで、信長には世界を見通して次代を創造するビジョンと、部下の能力を正確に見抜き、彼らを公平に処遇する能力があった筈なのだ。
そこまで話してCさんはようやく納得してくれたようだが、気がつくと帰船時刻が迫っていた。僕らは慌てて店を飛び出した。
★7月6日
上陸日。午前中は港の近くをジョギングし、午後はカリフォルニア大学のバークレー校を訪ねる。
大学時代の僕の楽しみの一つは神戸の古本屋や中古レコード店を物色することだったが、アメリカの学生街では中古レコードを安く買えるのが嬉しい。LP1枚で大体5ドルくらいだ。僕はジャズのLPを50枚くらい買い込んで帰船した。
★7月7日
夕方からサンフランシスコ日系人会主催の入港歓迎レセプションが催され、僕らはそれへのお礼の意味をこめて各班毎に用意してきた芸を披露した。
シー・シャンティ(海の作業唄)を合唱する班、詩吟を唸る班、怪しげな踊りをする班など、色々な催しがあったが、一番バカウケだったのは、我々の落語芝居「親子酒」であった。
このレセプションのもようは現地の新聞にも掲載されたのだが、そこで使われた写真も我々の班が演じているところのものだったのである。
(無断での転載・引用はご遠慮ください)
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