拓海広志「タガロアの故郷を訪ねて(1)」

 これは今から10数年前のある年の6月末に、インドネシアのマナド、サンギールを旅しながら書いた日記からの抜粋です。


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★6月24日

 昨日仕事でスラバヤまでやって来たのだが、少し遅くまで客と飲んでしまったので朝起きるのがちょっと辛い。それでも何とか早起きをし、早朝6時発のメルパティ機でウジュン・パンダン(マカッサル)へ向かうことにした。スラバヤの空港では当地名物のイカン・バンデン(サバヒー)の燻製を買い込む。マナドで会うことになるジョン・ラハシアさんとエディ・マンチョロさんへのお土産である。実のところ今回の旅は急に思い立って決めたため、まだラハシアさんにもエディさんにも何も連絡していなかった。

 ウジュン・パンダンでガルーダ機に乗り換えマナドに向かう。ウジュン・パンダンは現在もなお東インドネシアのターミナル的地位を占めており、東インドネシア各地とジャワ島を結ぶピニシなどもここのパオテレ港に必ず寄港するし、空路で旅する際にもここで飛行機を乗り換えるケースが多い。かくてスラウェシ島を縦断してマナドに着いた僕はタクシーの運転手と運賃交渉した後、マナド市内に住むラハシアさん宅に向かった。

 ラハシアさんはスラウェシ島のミナハサ半島とフィリピン・ミンダナオ島の間に浮かぶサンギール諸島の王族の子孫である。マナドの沖合いにはマナド・トゥアの名で知られる火山島とダイビング・スポットとして世界的に有名なブナケン島が浮かんでいるが、そのブナケン島のすぐそばに隆起珊瑚礁からなるシラデンという小さな島がある。

 伝えられるところによると、19世紀末にインドネシアを植民支配していたオランダはこのシラデン島をサンギール族ではなく、彼らが傀儡としていたマナドのラジャ(王)に支配させようとしたそうだ。しかし、これに抵抗するためにサンギール本島から6人のサンギール王家の者がマナドに押しかけ、ラジャから島を買い取ることで話がついたという。オランダは彼らが二度とサンギール本島には戻らぬことを条件に島の購入を許可したそうで、この6人の王族の中にラハシアさんの祖父がいた。

 シラデンで生まれマナドで育ったラハシアさんは、その父親からシラデンの土地を受け継いだのだが、他の5人の王族の子孫たちが生活のために自分たちの土地を手放すことを決めるたびにそれを買い取ってきたため、現在では約40ヘクタールある島のうち30ヘクタールは彼の私有地になっている。

 ラハシアさんはインドネシア独立戦争時にはスカルノを支えて活躍した軍人だが、やがて自らのライフワークである「タガロロジー理論」確立のために学問に専念するようになった。彼の理論は、それを単に言語学や人類学上の学説として見るならば評価が難しいのだが、インドネシアという国家がそのアイデンティティを確立するために躍起になっていた時代に出てきた重要な社会思想という意味において僕は関心を持っている。

 マナドの市街地から中華街を抜けたところにマナド港があり、その一角に中央市場がある。この市場内にある魚市場は並べられている魚介類の数と種類、鮮度、そして市場の活気という観点から見てインドネシア随一ではないかと僕は思っている。市場の裏手に市内を流れる川の河口があり、その周辺にはサンギール族の人々の集落があるのだが、そのあたりの約10ヘクタールもラハシアさんの土地だそうで、人々は彼から土地を借りて住んでいるらしい。

 幸いなことにラハシアさんはシンドゥラン地区にある自宅にいた。白亜の壁に開かれた窓から僕が中を覗きこむとラハシアさんは一瞬大きなギョロ目をさらに大きく見開いたが、すぐに僕であることに気づき、ニコリと笑って扉を開けてくれた。ラハシアさんは70歳を越えているのだがいつも矍鑠としており、一瞬たりとも毅然とした態度を崩さぬ人だ。僕は彼の前に立つときは懐かしい祖父に出会ったようなリラックスした気持ちと真剣勝負のような緊張感を同時に感ずるのだが、僕がこういう気持ちで接する老人は他にも二人いる。

 一人はミクロネシア・ヤップ島マープの元酋長で、僕が仲間たちと共に「アルバトロス・プロジェクト」(ミクロネシアの帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海の再現プロジェクト)を実施した際にお世話になったベルナード・ガアヤンさん。もう一人は現在ジャカルタでお世話になっている日本料理店「菊川」オーナーの菊池輝武さんだ。ちなみに、ラハシアさん、ガアヤンさん、菊池さんの三人には、かつて日本軍の一員としてその青春時代を送ったという共通点がある。

 ラハシアさんの家の中には彼が若い頃から続けてきた研究の成果をまとめた数多くのパネルや書物、また貝殻のコレクションがあふれている。ラハシアさんはシラデン島に「タガロロジー研究センター」なるものを作って、そこにこれらのパネルやコレクションを展示し、また島内にはコテージとレストラン、ダイビング・ショップを作り、島全体を自然と親しみながら文化を学ぼうとする人々を対象としたフィールド・ミュージアムにしたいという夢を持っている。常日頃からそんなことを語っているラハシアさんは僕との挨拶もそこそこにその話を始めた。

 シラデン島には約250人の島民が住んでおり、海で魚を獲ったり、ラハシアさんの私有地である林で採れるマンゴー、パパイヤ、バナナ、ココ椰子、キャッサバなどをマナドの市場まで運んで生計を立てているのだが、ラハシアさんは島民の生活を保護する一方で、サンギール族の文化を守るために彼らと共に伝統的な歌や踊りの講習会なども続けている。シラデンをフィールド・ミュージアムとする場合、彼らの暮らしとの調和という大命題があるわけだが、これについてラハシアさんは「パンチャシラ精神だ」と言う。

 パンチャシラとはインドネシア共和国の建国5原則のことであり、それは「唯一神への信仰」「人道主義」「インドネシア民族主義」「民主主義」「社会正義」からなっている。1945年8月に制定された「45年憲法」の前文に国家の存立原理として明記されて以来、パンチャシラはインドネシア国民道徳の基本とされているのだが、共和国独立から50年を経た今日ジャカルタでそれを口にする人は少ない。

 ラハシアさんの家で3時間ほど様々な話をした後、彼の使用人の運転する車で海岸沿いにある小さなホテルまで送ってもらった。一泊5万5千ルピア(約2千円)というのはマナドではやや高めだが、あてがわれたのがセレベス海に面した眺めの良いコテージだったので文句はない。

 僕はホテルの部屋からサム・ラチュランギ大学で水産経済学を教えているエディ・マンチョロさんの家に電話を入れてみた。幸いエディさんは自宅にいて、僕の突然の訪問に驚いたものの、「夕食を一緒に食べましょう」と言ってくださった。僕はラハシアさん夫妻からも夕食のお招きを受けていたのだが、エディさんはラハシアさんとも懇意なので、僕からラハシアさんに話して、エディさんもその場に加えていただくこととなった。

 夕食までの時間、僕はホテルの部屋で『現代インドネシア文学への招待』という本を読んだ。アイプ・ロシディさんの編集によるインドネシアの短編小説・戯曲、詩、文芸評論を集めた本だが、誤植の多さが気になった。掲載されている作品は玉石混交という印象だったが、個人的には短編小説ではモフタル・ルビス『苦力』、スギアルタ・スリウィバワ『黄昏の雲』、ヌルハヤティ・スハルディニ『遺体』、ダナルト『ハルマゲドン』、M・アブナル・ロムリ『ママ』、詩ではスハギオ・サストロワルドヨ『太陽は老いた』、レンドラ『説教』、タウフィク・イスマイル『51番目の里程標』、サパルディ・ジョコ・ダモノ『白き詩』などの作品に惹かれた。

 インドネシアの文学を考える際に考慮せねばならぬことは、それがまだごく一部のエリートによるエリートのためのものであること。また、使用されるインドネシア語という言語を母語としない作家が少なくないため、その表現方法に限界があるといったことである。

 インドネシア語は、15世紀頃に通商国家として知られるマラッカ王国で使われ、インドネシア群島各地でも交易用語として普及していたムラユ語を、1928年にインドネシア民族全体の共通語として採用することとしたものである。その背景にはインドネシア政治の中心勢力となるジャワ族たちが、ジャワ語を共通語とすることによって他民族の反発を買うのは避けた方がよいと判断したことがある。共通語をめぐる対立が民族問題に拍車をかけているインドとは対照的だが、これによってムラユ族以外のインドネシア人は自らの母語ではないインドネシア語を学校教育の中でのみ習っていくことになった。地方では今でもそれぞれの民族の言葉が日用語となっているので、インドネシア人作家の多くは第二言語を使って創作しているとも言えるのだ。

 言語はいつの時代でもナショナリズムと密接な関係を持たざるをえない宿命にある。共和国の独立から50年目を迎えた今年、インドネシア政府は突如として会社や商店などの名前に外国語を使用してはいけないという法令を出した。密室で決められた法令がある日突然発表され、それがまた頻繁に変更していくというのはこの国ではよくあることだが、このインドネシア語名使用令はかなり徹底されており、大企業から街の小さな商店に至るまで、皆名前の変更やそれに伴う看板などの書き替えのために大わらわである。

 ただ少し滑稽に感じるのは、もともとインドネシア語にはサンスクリット語アラビア語ポルトガル語オランダ語、英語などに由来する外来語が非常に多く、例えばインドネシア語でもホテルはhotel、銀行はbankとしか表現しようがないのである。また都市部に住むインドネシア人の中には西洋風のセカンド・ネームを持っていて、日常的にそれで互いの名を呼び合っている人も多いし、さらに言うならばインドネシアという国名自体も外来語に由来するものだ。共通語であるインドネシア語をさらに普及させようという政府の努力は理解できるが、既に定着している固有名詞を変更せよという法令は反動的過ぎるように思う。

 そんなことを考えながら本を読んでいたら、エディさんがホテルを訪ねてきてくれた。今年の初めにジャカルタの「寿司錦」で一緒に寿司を食べてから半年ぶりの再会である。エディさんは、今はちょうど大学が夏休みなので、僕のマナド滞在中はずっと付き合うよと言ってくださった。そうこうするうちに、ラハシアさん夫妻もホテルに来られ、一同はマナド市内のレストランに向かった。

 レストランでは僕の勤務する商社の水産部に所属するスタッフと偶然出会ってビックリしたが、彼はマナドの近くにあるビトゥン港でカツオの水揚げと日本への輸出船積みに立ち会うためにジャカルタから出張してきているのだった。カツオ、マグロの水揚げ港として知られ、ミクロネシアでのマグロ漁の餌として使われるアジの輸出なども行われているビトゥンは日本の水産業とはつながりの強い港である。ちなみに、インドネシアの東北の玄関口にあたるマナドには現在シンガポールとダバオから週2便ずつの国際線航空機が乗り入れているのだが、台湾からはマグロ運搬用のカーゴ・フレーターが頻繁に飛んでくるそうだ。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【エディ・マンチョロさん】


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