拓海広志「キラキラ日記帳(7)」

 これは今から10数年前のある年の11月半ばから翌年の1月初旬にかけて、インドネシアで書いた日記からの抜粋です。


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★某月某日

 今日から南スラウェシを巡る旅が始まる。いつもならば、乗り合いバスやべモを乗り継ぎながら旅をするのだが、今回は効率を考えて1台のコルトをチャーターすることにした。チャーター料は1日10万ルピア(約5千円)と少々高いのだが、短い日程であちらこちらを巡るためには仕方がないと判断した。

 運転手はファティアさんという陽気なブギス人で、ブギス語以外にもマカッサル語、マンダール語、トラジャ語が話せ、奥さんがバリ人なのでバリ語も多少は話せるのだという。僕たちはマカッサル(ウジュン・パンダン)を後に一路北上して行ったが、浜沿いに立ち並ぶ高床式の家と海を眺めながらのドライブは快適だ。

 パレパレの食堂で昼食をとり、マンダール人の拠点であるマジェネへ向かう。マンダール人とはマカッサル海峡での漁業(対象はキハダ、カツオ、カジキ、トビウオ、エビなど)と農業に従事する半農半漁の民であり、彼らの作る「サンデ」(ダブルアウトリガー・カヌーの一種)と、それを使って行われるルンポン漁(バナナやニッパ椰子の葉を使った柴漬漁法)はよく知られている。

 マジェネの浜と村を散策した後、パレパレまで引き返したが、急にかなり強い雨が降ってきたため、手近なところにあった「パレ・インダ・ホテル」に投宿した。エアコン、水浴場付きのツイン・ルームが4万4千ルピア(約2千2百円)。僕は地方を旅してロスメン(民宿)などに泊まる際にあまりエアコンにはこだわらないのだが、日本の冬を抜け出してきたばかりの奈須さんにとってエアコンは必需品のようである。


★某月某日

 朝一番、まだ暗いうちから月明かりを頼りにパレパレの浜の市場に向かう。ママサ出身だという宿のボーイはインドネシア語がほとんど話せず、市場への道を聞き出すのに一苦労したが、幸いべチャをつかまえることができたので何とかなった。

 市場から宿へ戻ってコーヒーを飲んでいたらファティアさんが迎えに来てくれた。彼はパレパレに親戚の家があるそうで、昨夜はそこに泊まったという。僕たちはさっそくコルトに乗り込み、タナ・トラジャへ向けて出発することにした。と、奈須さんが突然悲鳴をあげた。握り拳ほどの大きさのクモが車の中にいたというのだ。僕もそいつを捜したが、もうどこかに隠れてしまって見つからない。

 ファティアさんによると、ブギス人やマカッサル人にとってクモはめでたい生き物であり殺してはならないそうだが、その一方で「クモを使って精力剤を作ることもある」と言うのだからなんだかよくわからない。

 車がエンレカン県に入ったあたりで山道にあった茶店に立ち寄り、椰子砂糖で作った菓子を食べながらコーヒーを飲む。なだらかな山脈が眼前にひろがっており絶景である。トラジャ人だという若者が隣のテーブルに座っていたので会話を交わしているうちに、先日首長クラスの男性が亡くなったため、ラボという村で「ディラパイ」と呼ばれる葬送の儀式が行われていることがわかった。

 トラジャと言えば風葬で知られるところだが、そのバラエティに富んだ葬送の儀式でも有名で、高位の人のための儀式である「ディラパイ」の場合は約7日間にわたって昼夜の別なく大々的に催されるのだという。ちょっと不謹慎な話だが、僕たちは早くその儀式を見たくなり、ラボ村へ向かうことにした。

 ラボ村へ入る前に風葬の場所を幾つか見てまわった。トラジャ人はいわゆるプロト・マレー人に属しており(プロト・マレー人とは紀元前2500年頃に雲南からメコン川沿いに南下してきた人たちを祖先とするマレー人のこと)、その文化は後に海を渡ってやって来た新マレー人たち(ジャワ人、スンダ人、ミナンカバウ人、ブギス人、マカッサル人、マドゥラ人など)とは異なる特徴を持っている。

 現在トラジャ人の約8割はクリスチャンであり、風葬の場にも十字架が立てられていたりするのだが、死体を棺桶に入れて崖の洞窟や横穴(壁龕墓)の中に放置し、自然風化していくのに任せるという死体処理の方法は、同じプロト・マレーに属するカリマンタン・ダヤック人の樹上葬などと同様に彼らの伝統的な自然観・死生観に基づくものである。

 僕は洞窟のまわりに積み上げられた骸骨の山を嫌と言うほど見せられてもさほど何も感じないのだが、墓に供えられたタウタウと呼ばれる石像たちの目には魅入られてしまいそうな気がした。遠野で曲がり家の中に祀られていた「おしらさま」と出会った時や、津軽の寺々に置かれてある「化粧地蔵」を見たときにも、何とも言えず不思議な吸い寄せられるような気がしたものだが、その感覚と似たものを僕は感じていた。タウタウはディラパイの度に作られるそうで、その性別は死者と同じものにするのだが、何故か顔や姿は死者に似せずに作るのだという。

 風葬墓を見た後、ディラパイのセレモニーが行われているというラボ村のランテ(葬送儀式を行うための特別な広場)に向かった。小高い丘の上に竹を組んで作った10棟ほどの小屋の中央に死者を祀る一際高い小屋がある。丘の上の野原では水牛を使った闘牛やダンスが行われ、僕たちが到着した時には既に千人ほどの村人が闘牛に熱中していた。僕たちも観衆の群に加わり、一緒になって声援を送る。

 水牛は元来性質の穏やかな動物なので相手と向かい合ってもそう簡単には闘う姿勢を示さないのだが、行司の叱咤と観衆の怒号に急き立てられるようにして段々正面からぶつかり合うようになるのだ。牛同志がぶつかった時の「ドスーン!」という鈍い音が響く度に観衆は興奮度を増していく。やがてどちらか一頭が戦意を喪失して逃げ出すと、勝った方がそれを追いかけてランテ中を走り回り、それで決着がついたことになるようであった。

 この水牛たちは最終的には生贄として殺されることになるのだが、水牛は農耕民にとって欠かせぬ大切なものであり、情愛も移りやすいものだと思う。ランテまで水牛を牽いてきた飼い主の若い男が悲しそうな表情を浮かべているのが印象的であった。

 ラボ村を後にし、「トラジャ・トゥルスナ・ホテル」(水浴場付きのツイン・ルームで1泊5万ルピア(約2500円))にチェックインする。そこからべチャに乗ってランテパオの市場に向かうことにした。トラジャの人々がカメラを嫌うことがわかったのであまり写真は撮っていないのだが、この市場はなかなか興味深かった。

 老婆たちがござの上に干したタバコの葉、若いキンマの葉、ビンロウの実を並べて売っているのを見て、何だか懐かしく感じたのは何故だろう。

 市場ではワタンポネ産だという干魚がたくさん売られていたが、鮮魚も並べられていた。ウナギやフナ、ナマズは川で獲ったのだからよいとして、小型のカツオやムロアジ、ウシエビまであるのには驚いてしまった。これらは明日僕たちが目指すことにしているパロポからトラックで運ばれて来るのだそうで、現代のトラジャは意外に海から近いのである。

 他にはサトウヤシから作った黒砂糖、南スラウェシのタカラル産だという塩、各種の香辛料や野菜、サゴ、米、豚肉、衣類などが並べられており、その品揃えの豊かさは思っていた以上だ。
 また市場でよく目に付いたニンニクについて人々はそれがパレパレから運ばれてきたというのだが、スラウェシではニンニクはとれない筈なので、どこかよそから海を渡ってやってきたものと思われた(インドネシアは日本と同様にニンニクの大半を中国から輸入している)。

 宿に戻って食事をとる。ホテルにはクリスマス休暇を利用して働いているというアルバイトの学生が五人ほどいて、他に客もいないものだから僕たちのまわりを取り囲んで四方山話で盛り上がった。トラジャにはトゥアックと呼ばれるニッパ椰子の発酵酒があるのだが、宿の従業員が我々のためにわざわざそれを手に入れてきてくれた。高千穂のカッポ酒を彷彿させるように1メートルほどの長さの竹筒に入ったトゥアックはなかなか美味だった。

 宿の従業員がラボ村のランテへ行ってみようと言うので、再度村へ向かうことにした。小屋にはランプが灯され、何とも幻想的な雰囲気が漂っている。翌朝には生贄となる水牛や豚たちが石につながれており、人々はそのまわりでトゥアックを飲みながら談笑していた。誰かが持ち込んだラジオから「くちなしの花」のメロディーが流れていたが、それが妙にこの場の雰囲気に合うので奈須さんと顔を見合わせて笑ってしまった。

 この連日連夜繰り広げられるディラパイにはインドネシア各地から死者の親族や友人たちが駆けつけているそうで、葬儀場は大きな社交場ともなっているようだ。宿の従業員が死者の親族の人たちと話をつけてくれ、僕たちは死者の遺体が安置されている中央の小屋に上げてもらえた。

 小屋の中には作られたばかりのタウタウが置いてあり、小屋の最上部には棺桶が置かれていた。死者の親族はこの棺桶の中に納められた遺体を守りながら、ディラパイの1週間をこの小屋で過ごすのだという。


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【トラジャでのディラパイの様子】


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