拓海広志「キラキラ日記帳(5)」

 これは今から10数年前のある年の11月半ばから翌年の1月初旬にかけて、インドネシアで書いた日記からの抜粋です。


   *   *   *   *   *   *


★某月某日

 ジャカルタ発のガルーダ航空機から降り、マナド空港を出たところでサムラチュランギ大学のエディ・マンチョロさんの出迎えを受けた。エディさんは水産経済学の教師をされているのだが、先だってジャカルタで開催された「国際バジャウ・セミナー」に出席したことが縁で僕とも知り合いになっており、今回マナドで再会を果たすことになったのである。

 「ラハシアさんも拓海さんに会いたくていらしてたんですが、他の約束があったのでもう帰宅されました。でも、明朝には拓海さんに会いたいそうですよ」とエディさんが言ったが、ジョン・ラハシアさんとはミナハサ半島とミンダナオ島の間に浮かぶサンギールの出身で、今はマナドに住む老人のことだ。

 ラハシアさんはインドネシア独立戦争時にスカルノを助けて奮闘した将校の一人だったのだが、それと同時に独学の人類学者でもあり、後にスカルノから「トール・へイエルダールの学説を学問的に打破してみないか?」と求められたことをきっかけに軍を退役して学問に専念することにしたという変わり者である。

 「コンティキ号」の漂流実験(1947年)で知られるへイエルダールによるとポリネシア人は南米から渡来したというのだが、現在の人類学や考古学の成果はこれが誤りであることを証明しており、太平洋諸島民は中国南部・ベトナムからインドネシアの島々に渡ってきた人々が海を越えて拡散していったものとされている(南米の人々はもっと古い時代にシベリア、アラスカ、北米大陸を歩いて渡って行ったモンゴロイドの子孫である。勿論、彼らとポリネシア人の間に交流・交易はあったはずだが、へイエルダールはそれと民族移動の流れを混同してしまったようだ)。しかし、スカルノ大統領がラハシアさんにそんな話を持ちかけたのは、へイエルダールの冒険が世界の耳目を集めていた時期である。

 独立後、民族意識の高揚していたインドネシアにおいてスカルノが専心したのは、ついこの前までそれぞれの民族ごとに自己主張をしていた人々に対して「インドネシア」という新たなアイディンティティを持たせることであり、そんな中でスカルノは太平洋の島々に住む人々のルーツがインドネシアであることを証明することによって彼が構想していた「マレー文明圏」の範囲を太平洋にまで拡げたかったのかも知れない。

 この夜僕は「レックス・ホテル」(1泊1万5千ルピア(約千円))というホテルに泊まったのだが、マナド市民の大半がプロテスタント系のクリスチャンであるため、クリスマスの今日は商店の大半はシャッターを下ろしており街は静かだ。

 夕食を食べる店もないのでどうしようかと思っていたら、エディさんが僕を自宅に招待してくださった。そこで、奥さんが作られたマナドの名物料理でもある豚の角煮を食べながら、東南アジア、オセアニア、日本における豚肉料理の共通点と相違点に関する話で盛り上がり、夜はアッと言う間に更けていったのである。


★某月某日

 朝5時に起き、マナドの中央卸売市場へ向かう。この市場は漁港と隣接しているため魚市場も中にあるのだが、卸売市場を取り巻くように小売りの露天商などが所狭しと店を出していて、非常に活気がある。

 扱われている魚介類の種類は非常に豊富で、特によく目を引いたのは、カツオ、キハダ、メバチ、カンパチ、シイラ、サバヒー、マダラハタ、ウマヅラアジ、ダツ、ユメウメイロ、マンボウ、各種のアジ、イワシ、サバ、メジロザメ、イカ、青ウミガメといったところで、外洋の回遊魚と珊瑚礁の魚が入り混じって売られているのがマナドの漁業の多様さを思わせた(カツオについては内臓やチュウェ(生節)もよく目にした)。

 朝食がまだだった僕は1000ルピア(約50円)を出して体長20センチほどのメアジを4匹買い、海岸近くの簡易食堂に持ち込んで炭火で塩焼きにしてもらったのだが、ここではお茶の他にロントン(米をバナナの葉でくるんで炊いたもの)がサービスで付いたにもかかわらず、調理代がわずか200ルピア(約10円)だというからビックリしてしまった。塩焼きにされたメアジは素晴らしい美味しさで、セレベス海を眺めながらの素敵な朝食となった。

 マナドの人たちは概して陽気で、市場の中でカメラを向けるとすぐに周りから大勢人が集まってきてポーズをつけたりする。

 ミナハサ半島に住む人々はかつてミンダナオ島から渡ってきたと言われているが、今でもフィリピンとの間の人や物資の行き来は盛んなようで、ダバオのプランテーションまで出稼ぎに行く人も少なくはないという。また、逆にフィリピン側からインドネシア領海に入ってきた漁船や密輸船が拿捕されて船員たちが抑留されるという事例も結構あるようだ。

 市場の散策を終えて宿に戻ると、エディ・マンチョロさんが僕を迎えに来てくれていた。ジョン・ラハシアさんが自宅で僕を待っているというのだ。

 ラハシアさんの家はマナド市東部の閑静な住宅街の中にあった。氏は僕をバティックシャツの正装で迎えてくださったが、いかにも軍人出身らしい毅然とした態度の人で、69歳という年齢を全く感じさせないタフガイという感じがした。ラハシアさんはギョロリとした目つきで僕を一瞥した後、握手のために右手を差し出し、「あなたのことはボブ・ホブマンからよく聞いていたので、一度会いたいと思っていたのです」と言った。

 ボブ・ホブマンさんというのはニュージーランド人の探検家で、オセアニアの民族移動に対して並々ならぬ関心を持っているのだが、かつてフィリピンで建造したカヌーでマダガスカル島までの実験航海を行った実績も持っている。

 僕が仲間たちと共にミクロネシアにおいてヤップ〜パラオ間の石貨交易航海を再現しようしている話をどこかで聞きつけたボブは僕にコンタクトしてき、一度バリのサヌールで会って以来、僕たちの交友関係は続いているのだが、現在ボブはラハシアさんが所有するシラデン島に居候して新しいカヌーの建造に励んでいるらしい。

 ラハシアさんの広い家の中は氏が自ら収集し、自ら作ったという貝細工であふれかえっており、応接間には「タガロロジー」と記した講義用の大きなボードが掲げられていた。ラハシアさんはいきなりそのボードの前に立つと、「まず私の思想を知ってください」と言い、氏の提唱する「タガロロジー理論」の講義を始めてしまった。

 「タガロロジー理論」とは、西洋人の命名による「マラヤ・ポリネシアン」「オーストロネシアン」という呼称に替えて、オセアニアの人々のことを「タガロア人」と呼ぼうという提案を出発点とし、彼の言うところの「タガロア人」たちの民族移動や文明について解説したものだ。

 ラハシアさんの著書『Penemuan Kembali Tagaroa』(「タガロアへの回帰」とでも訳せばよいだろうか)を読むと氏の思想はよくわかるのだが、彼らの海神オーケアノスの名を取って西洋人が名付けた「オセアニア」という呼称よりも、ポリネシアの海神であるタンガロアに由来する呼称の方がこの大海にはふさわしいと氏は述べており、タンガロアのルーツはフィリピン〜東インドネシア海域にあることから、東南アジア島嶼域からオセアニアにかけての島々を「タガロア」と称することによって、その文化的な一体感を高めようというの氏の主張の骨子だ。

 かつて大マレー主義を唱えていたスカルノ前大統領の肝いりで始まったラハシアさんの学問だけにそういうエッセンスが随所に見られるものの、マナドという辺境の地に住みながら博覧強記の独学でこういう学説を打ち立てた氏のエネルギーには敬意を表さざるをえない。

 ラハシアさんの講義は3時間にも及んだが、氏は人類史と自然史、文明史の間の<関係>に対しても強い関心を持っており、民族移動についてもその<関係>の中から生じた「必然」であるという見方をしているようだった。

 氏は講義の最後に「私の思想は全て「科学と宗教の対話」の中から生み出されてきたものです。どちらか一方に偏ったものは思想としては有効ではありません」と語ったが、こういう知性の持ち主がスラウェシ島の東北端に存在しているというのは興味深いことだ。

 ラハシアさんは言葉の持つ「音」に対しても非常に鋭敏な感覚を持っており、「「マ」という音はかつてタガロア文明にとって大きな意味を持っていたのではないか?」という仮説を掲げている。マニラ、マナド、マラッカ、マジェネ、マカッサル、マドゥラ、マルク、マダガスカル、マナ、マウイ、マオリ ---- 単なる語呂合わせのようでもあるが、そうでないような気もする。

 僕自身は「マ」という音に対して空間と時間が混沌と溶け合う「あわい」の中にある何ものかというようなイメージを抱いているのだが、漢字やアルファベットといった文字の象(形)や記号とは関係なく、音には何らかの意味やイメージ喚起力があるので、ラハシアさんの推測もあながち間違ってはいないのかも知れない。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)




【マナドの市場にて】


Link to AMAZON『熱帯アジアの海を歩く』

熱帯アジアの海を歩く (ベルソーブックス006)

熱帯アジアの海を歩く (ベルソーブックス006)

Link to AMAZON『海洋の人類誌』
海洋の人類誌―初期の航海・探検・植民

海洋の人類誌―初期の航海・探検・植民