拓海広志「石貨交易航海の再現(2)」

 1999年に新西宮ヨットハーバー内のシャイニー・ホールにおいて開催されたイベント(主催:アルバトロス・クラブ)において、僕は「ヤップ〜パラオ間の石貨航海プロジェクト」の話をさせていただきました。


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 ところが、物事というのは一つのことに深く突っ込んで行くと、自動的に幅も拡がっていくという面があるわけですね。例えば、僕が仲間と一緒にヤップに深入りしていくと、今度はヤップという島が直面している現実が見えてくるわけです。


 現在のヤップはアメリカの強い影響下に置かれており、そこで消費生活が近代化したにもかかわらず、生産形態は決して近代化しておらず、こうなると援助なしでは生活が成り立たない状況にあるわけですね。こうした中で、島にはアルコール中毒麻薬中毒に陥る人も増えてきています。


 今日は薬物中毒からの脱却を図る会・ダルク代表の近藤恒夫さんもおみえになっていますが、こうした社会環境の変化のせいか、ヤップでは自殺率が非常に高いのです。つまり、観光客から見ると南海の楽園のように見えるヤップ島ですが、その社会の裏側には様々な問題があるわけですね。そうすると、今度は急に社会派になったりなんかして(笑)、現在のヤップ社会が抱える問題についても少し気になってきます。


 ヤップ島には、漫画のギャートルズに出てくるような大きな石貨がありますが、かつてここではこれが流通していたのです。ヤップから南西へ五百キロほど行くとパラオという島々がありますが、古来ヤップの男たちはカヌーに乗ってパラオ諸島に渡り、そこにあるライム・ストーン(結晶石灰岩)という美しい石を切り出して円形に加工した後、ヤップまで持ち帰りました。それが石貨です。


 石貨は非常に大きなお金ですから、容易には持ち運びができません。そこで、それは島のある一定の場所に置かれたままで、所有者がそれを何かの目的に使用する度に、島の人々が所有権の移転を確認し合うといった形で使われてきたようです。


 そうすると石貨には色々な物語が付与されていくわけです。一番最初の物語は如何に苦労してこのお金がパラオから運ばれてきたか。その後は如何に有意義なことに使われてきたか。そして、そうしたことによって石貨の価値はどんどん変わっていくわけですね。


 ところが、ヤップ〜パラオ間の石貨交易航海というのは、百年ほど前に途絶えたきりになっています。また、現在ヤップで流通しているお金は米ドルでして、石貨は余程重要な場面において儀礼的に使われるに過ぎなくなっています。


 こうした状況下において、僕たちがいつもお世話になっていたヤップの老酋長の一人ベルナルド・ガアヤンさんが「石貨は単なる観光用の遺物として置いてあるのではなく、ヤップ人の魂の象徴なんだ。出来ることならば、パラオまで石貨を取りに行く航海をもう一度やってみて、様々な問題に直面している今のヤップの若い連中にかつてのヤップ人の生き様を見せたい」というようなことを言い出し、僕に一肌脱いでほしいと言ってくれたのです。そこで僕は日本に戻って仲間たちにこの話をしたのですが、それに呼応して10人近い有志が集まってくれました。


 ヤップという島は人口1万人くらいの小さな島なんですが、表側の政治を担うミクロネシア連邦ヤップ州政府と裏側の政治を担う酋長会議の間には微妙なパワー・バランスがあるのですね。僕たちはヤップにおいて特定の個人と結びつく形でこのプロジェクトを進めたくなかったので、交渉には二年以上の時間を要しましたが、最終的にはヤップ内でのコンセンサスが取れ、僕たちはヤップ州知事と大酋長のお二人との間で正式にサインを交わし、ヤップの公的イベントとしてプロジェクトを実施することにしました。


 日本のイベント業者やテレビ番組の制作会社の中には、特定の個人と結びつく形でこの種のイベントを企画し、お金の力で強引に実現させてしまうケースもあるそうですが、僕たちの場合はプロジェクトに参加したメンバーがなけなしの貯金をはたいて資金を用意してやっているわけですから、そんなやり方は取れません。また、何よりもまずそういうやり方を取るとプロジェクト後に金銭的なトラブルが起こることがありますので、僕たちとしてはあくまでも正攻法でいこうと思ったのですね。


 こうして正式な調印が終わり、カヌーの建造が開始されたわけですが、どうせやるならば出来るだけ昔のやり方でやろうということで、森の奥からタマナの巨木を切り出し、それを刳り抜いて船体とすることになりました。


 この時に原木の所有者に対しては酋長会議より石貨で支払いが行われたそうですが、ヤップには木はそもそもカヌーであるという話があるんですね。つまり、木というのは仮の姿であって、その中には早くカヌーの姿に変えてほしいと願う精霊が潜んでいるので、その精霊の呼び声のする木を選んで、カヌーを作らねばならないというわけです。


 ヤップでは、カヌーを作るときには木が成長するのと同じくらいのスピードで作りなさいと言うのですが、実際僕たちのカヌーの建造には電気的な工具はほとんど使用されず、昔ながらのやり方に従いながら作業は実にゆっくりと進められ、結局原木の切り出しからカヌーの完成までには約1年半の時間を要したのです。この間、僕たちの仲間からは京大の田中拓弥さんがヤップ島に常駐し、カヌーの建造記録を取られています。


 ところが、いざ航海をしようということになった時に、今度はパラオ側が反対するわけですね。何故かと言うと、ヤップの人々がパラオのライムストーンから石貨を作って持ち帰ったというのは、パラオ側から見ると侵略された歴史だからです。ところが、パラオの方は最近は観光立国していますから、ヤップよりも遙かにさばけたところがありまして、結局最終的にはOKしてくれました。一度話がまとまってからのパラオ側の積極的な協力ぶりには、関係者一同大いに感激したものです。


 そんなわけで、何だかんだと足かけ5年ほどかけて、僕たちはこのプロジェクトを実現させたわけですが、資金集めにはとても苦労しました。大手企業の中にはスポンサーシップを検討してくださったところもあったのですが、残念なことに「いついつまでに必ず実現してください」といった類の条件を提示されるために、僕たちの方がそれを受けられないケースがほとんどでした。何故ならば、石貨交易航海はヤップの人々にとってこそ意味があるものであり、僕たちはそのお手伝いをしているに過ぎぬ以上、その実現についてギャランティーできる立場にはなかったからです。


 結局、大手企業からのスポンサーシップはほとんど得られず、渋谷潜水工業の渋谷正信さんをはじめとする皆様方からのカンパと、プロジェクトに参画したメンバーからの個人的な出資、そしてサントリー及び産経新聞社からの奨励金、またTBSの「報道特集」という番組からいただいた取材協力費や古野電気からの航海計測機器のご提供などによって、何とか乗り越えたわけですね。それにしても、当時のプロジェクト・メンバーはみんな本当によく頑張ったと思います。


 このプロジェクトの最後を飾ったヤップ〜パラオ間の往復航海において、船長を務めてくださったのが、ヤップの離島にあたるサタワル島出身の高名な航海者であるマウ・ピアイルックでした。本来ならばこの航海の船長はヤップ本島民が務めるべきなのですが、本島にはもうカヌーで外洋に出て行くことの出来る人がいないので、急遽マウに白羽の矢が刺さったわけです。しかし、かねてよりマウの航海術にふれてみたいと思っていた僕たちにとって、この人選は何よりも嬉しいことでした。


 この航海の詳細については僕も、他のプロジェクトメンバーも既にいろいろなところに書いていますので、今日はこれ以上は語らないことにします。当時、このプロジェクトに参加したメンバーの大半は僕も含めてまだ20歳代半ばでしたので、いろいろ大変なこともありましたが、なかなか素敵な「青春」でした(笑)。また機会があればこういう楽しい企画に挑んでみたいものです。今日はどうもありがとうございました。


※参考記事
拓海広志「イメージの力で海を渡る」
拓海広志「渡海−人は何故海を渡るのか?」


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【ベルナルド・ガアヤンさん(中)、杉原進さん(向かって右)と共に】



【帆走するカヌー「ムソウマル」】


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