拓海広志「越境する問題」

 数年前に友人の菅井禎亮さん(NHKディレクター)が性同一性障害に関するテレビ番組を作ったので拝見したのだが、この問題を扱った番組としては相当良質なものに仕上がっていたように思う。


 菅井さんがそれを制作するにあたって何を見つめていたのかはわからないが、僕は向こう側の問題、あるいは社会全体の中ではマイナリティーに属すると思われる問題がはらんでいる越境性に着目し、それがいつの間にか日常に浸透してくることを「現在」の特徴として捉える視点の存在を感じていた。


 通常、僕たちは自分が関心のない問題に対しては「関係ない」と発言するのだが、実はそういう問題も何らかの回路を経て最終的に自分に関係してくることが少なくなく、こうした関係の網の目の細かさこそが「現在」の特徴のようである。


 実は僕が初めてこうしたことを感じたのは、捕鯨問題に関わるようになった時のことである。この問題について考えることを通じて僕は現代社会において「関係ない」ことなど一つもなく、全ての物事はどこかでつながり合っているということを学んだ。


 世の中で起こる全ての問題について関心を持つなどということは到底不可能だし、関心を持った問題全てに対してきちんと対処するということも不可能なのは言うまでもない。ただ、自分が避けて通ってきたつもりの問題であっても、どこかで自分と関わりうるのだということだけは知っておいた方がよさそうだ。僕は菅井さんの番組を通じて改めてそのことを思ったのである。


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 話題は変わるが、以前あるMLで交わされていた議論の中で僕が引っかかりをおぼえたことの中に、「女性の割礼」に関する問題があった。


 割礼は主として中東やアフリカに伝わる古俗だが、男性の割礼についてはその他の地域においても数多くの事例が見出されるし、近代社会においても衛生上の理由や性的能力の増強といった目的から包茎手術が行われているのは周知の通りだ。


 だが、アフリカで行われている女性の割礼はクリトリスや小陰茎を完全に切除したり、陰部を封鎖するといった荒っぽいものが多く、その結果として致命的な感染症にかかったり、施術用の剃刀の使い回しが原因でエイズに感染する女性も増えており、昨今では大きな社会問題となっている。


 人間の「性」と「食」には文化的な多様性がかなりあって、それは未だに偏見の対象になりやすいジャンルだ。「性」と「食」について考えることは人間の根源について考えることを意味するものではあるが、通常は他人の「性」や「食」の具体的なありようについては口を出さないのが無難だ。


 外部の世界に住む者が内部の最もデリケートな問題である性の問題について言及するというのは可能な限り避けるべきであり、それが外部から多少奇異に見える習慣であっても、内部にいる人たちがそれで良いと思い、ハッピーに暮らしているのであれば、外部から干渉、関与するのはそれこそ「いらぬおせっかい」だろう。では、このアフリカの「女性の割礼」問題についてはどう考えるべきなのだろうか?


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 アフリカにおける割礼のルーツを探っていくと、部族の創世神話とのつながりがうかがえるケースが多く、それらにはことごとく意味がある。だが、スーフィズムがアフリカに入ってきた頃から、そうした古俗とイスラムの教えが恣意的に結びつけられてしまった面があることについては無視できない。


 イスラムの法典には割礼について書かれたものは何もないものの、中東の古俗であった割礼の風習がいつの間にかイスラム的な風俗となり、イスラム教の伝播に伴って東南アジアなどにも拡がったと言われている。そして、アフリカの場合はもともと男女共にイニシエーションとして割礼を受ける習慣を持っている部族が多かったため、彼らは「イスラム教でも神が割礼を求めている」というふうに受けとめたのではなかろうか。このあたりのことについては全く憶測の域を出ないので、詳しい事情をご存じの方に是非ご教示いただきたいと思う。


 僕は、外来の宗教であるイスラム教が初めてアフリカに伝えられた際に、古来のアニミズム的な信仰を持っていた部族の指導者たちは一種の危機感を抱きながらそれを受け入れたものと推測するのだが、そうした中で彼らの創世神話に基づく割礼と、イスラムがもたらした風俗としての割礼は、彼らが文化的アイデンティティを保ちながら、新しい宗教、新しい文化を受容していくプロセスにおいて、一種の橋渡し役となった可能性があるような気がしている。現在、女性の割礼が盛んな地域の中には、割礼をイスラムの教えと関連づけて正当化しているところが少なくないようだが、その起源はこうした事情によるものではなかろうか?


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 実は、僕がここで敢えてこのような憶測を述べているのは、こうした割礼の習慣を彼らの伝統文化として認知した上で、文化相対主義の観点に立って「外部からの批判や介入」を退けるという論法を容易には成立させないためである。


 人と人、社会と社会、内部と外部は常に接触し合いながら動き、変化していくものであり、常に固定化された人や社会などありえないわけだが、僕たちはそうした「変化の歴史」の積み重ねによって生まれてきた人間社会のダイナミズムをつい忘れることがある。


 そうなると偶然目の前にあるものがずっと昔から同じようにそこにあったものと思われ、それに対して何らかの影響を与えることについて臆病になったりもするのだが、それがいつも正解とは限らない。


 「女性の割礼」問題において語られるべきことは、それが伝統的な「文化」であるか否かということではなく(それもまた「文化」であることに疑いはない)、それによってあまりにも多くの女性が生命の危機に瀕し、大きな障害を持って生きざるをえない運命を甘受しているという事実であり、それに対して彼らの内部からも疑問や反対の声が高まってきている中で、こうした慣習が現代社会において容認できるかどうかということである。


 それ以外のことについて論じ過ぎると問題の本質がぼやけてくるし、だからと言って彼らの文化的行為を我々の規範に基づいて「性搾取」だとか「性暴力」などと規定してしまうと、これもまた物事の本質を見誤ってしまう。


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 「女性の割礼」問題は非常に取扱の難しいものなので、興味本位の議論を一切排した上できちんと語り合うための土壌が必要だが、今の僕たちはそうした土壌を持ち合わせているだろうか? 


 さらに言えば、これからのグローバル社会、マルチカルチュラル社会において、我々が恐らく無数に遭遇することになるであろうこの種の問題について、どう対処すべきなのだろうか? 


 「性」とか「食」、あるいは「人権」といったデリケートな問題が出てくると僕たちは議論をためらいがちだが、それではすまないケースは今後間違いなく増えてくるだろうし、文化相対主義という大義名分を掲げることによって議論をかわしてばかりはいられない。


 「現在」の問題はいかに遠くにあって「関係ない」ように見えていても、容易に越境し、僕たちの日常に浸透、関係してくるという性質を持っていることを理解した上で、そうした問題についてきちんと語り合える土壌を作っていきたいものである。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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