拓海広志「ザ・外資」

 高杉良さんの『小説ザ・外資』はかつてハゲタカ、ハイエナなどと呼ばれた一部の米系ファンドが日本の証券市場を牛耳ろうとする様を描いた作品です。様々な人々の努力によって成り立つ健全な企業群が、こうした一部のファンドによって単なるマネーゲームの対象とされ、翻弄されるようなことがあってはならないのですが、この本はそうした行き過ぎた「ギャンブル・キャピタリズム」に対して警鐘を鳴らす書になりうると思います。


 しかしその一方で、僕は高杉さんほどの作家が何故そのタイトルを「ザ・外資」とされたのか、その点はよく理解できません。日本に進出している外資系企業と言っても、それは米系だけではなく、実に様々な国の企業が存在しますし、逆に日系企業も世界の多くの国の人たちにとっては強い影響力を持つ外資系企業です。海外で事業展開している「外資系企業」の多くは、その本社がある国の企業文化、経営文化の影響を大きく受けますが、当然のことながらそのあり様は一つではありません。従い、日本に進出している外資系企業を単に「外資」と括って語ることはできないと僕は思うのです。


 ところで、15年ほど前に僕が読んだ本に、N・J・アドラー氏の『異文化組織のマネージメント』があります。アドラー氏は国際経営の進展を、(1)国内、(2)国際、(3)多国籍、(4)グローバルの4段階に分けています。少し長くなりますが、それを以下に引用してみます(注:ここで説明されている個々の事項について、僕が同意できないこともあるのですが、その議論はここではしません)。


※主要な志向 
(1)製品・サービス、(2)市場、(3)価格、(4)戦略


※競争戦略
(1)国内、(2)マルチドメスティック、(3)多国籍、(4)グローバル


※世界ビジネスの重要性
(1)重要でない、(2)重要、(3)非常に重要、(4)最も重要


※製品・サービス
(1)新しく独特、製品工学の重視、(2)かなり標準的、生産工程工学の重視、(3)完全に標準的、工学が重視されない、(4)大量の顧客化、製品・生産工程工学


※技術
(1)専有、(2)共有、(3)広範な共有、(4)即座で広範な共有


※売上高に占める研究開発費
(1)高い、(2)減少、(3)非常に低い、(4)非常に高い


※純利益率
(1)高い、(2)減少、(3)非常に低い、(4)高いが、すぐに減少


※競合会社
(1)なし、(2)少数、(3)多数、(4)相当数(少数または多数)


※市場
(1)小さくて、国内的、(2)大きくて、マルチドメスティック、(3)かなり大きく、多国籍、(4)最も大きくて、グローバル


※生産場所
(1)国内、(2)国内と主要市場、(3)多国籍、最小コスト、(4)グローバル、最小コスト


※輸出
(1)なし、(2)成長、高い、潜在性、(3)大量、飽和状態、(4)輸出入


※組織構造
(1)機能別事業部、集権組織、(2)国際事業部を有する機能別組織、分権組織、(3)多国籍事業ライン、集権組織、(4)グローバル提携、ヘテラルキー調整された分権組織


※視点
(1)本国志向、(2)現地志向、地域志向、(3)多国籍志向、(4)グローバル・多国籍志向


※文化的敏感さ
(1)ごく僅かに重要、(2)非常に重要、(3)多少重要、(4)決定的に重要


※文化的敏感さの対象者
(1)誰もいない、(2)顧客、(3)従業員、(4)従業員と顧客


※文化的敏感さの対象階層者
(1)誰もいない、(2)労働者と顧客、(3)マネージャー、(4)経営幹部


※戦略的想定
(1)1つの方法、唯一最善の方法、(2)多くの優れたエクィファイナリティ、(3)1つの最小コストの方法、(4)同時に多くの優れた方法


 アドラー氏の分類を見てみると、企業が国際化、多国籍化、グローバル化するかどうかは、その企業の経営規模の問題でもなければ、発展段階を意味するものでもなく、むしろ経営文化と市場志向性、そして何よりも経営戦略の問題であることに気付かされます。また、冒頭でふれたように、日本に進出している様々な国の外資系企業についても、その国際経営の進展については幾つかの段階に分けて考えるべきであり、一様に語ることはできないことも理解できると思います。


 つまり、まだ国際化の段階に入ったばかりのイタリア系某社の日本支社で働くのと、既に多国籍段階にある米系某社の日本支社で働くのではやはり大きな違いがあり、前者には家族的な居心地の良さはあるものの閉鎖的な面もあり、日本人従業員が経営中枢まで昇っていくことは難しいのに対して、後者は競争は厳しいものの、日本人従業員に対しても公平に開かれた機会が与えられる可能性があります。そうした違いを考慮せずに、一言で「外資」と呼ぶのは誤解のもとでしょう。


 企業が国内型で行くのか、国際型、多国籍型、グローバル型で行くのかは上述した通り経営戦略に基づくものですので、国際経営の進展段階が異なるということは経営戦略が異なるということをも意味します。ただし、社員、株主、顧客(消費者)の価値観の多様化が進む現代だけに、マルチ・カルチュラル・マネージメントはグローバル企業だけではなく、多国籍企業、国際企業、あるいは国内企業においても今後はその部分的な導入が必要になるのではないかと思います。

 
 ところで、世界には「アンチ=グローバリズム」に熱を上げる人も少なからずいるのですが、その主張をよく聞いていると、実はその本旨は「アンチ=パックス・アメリカーナ」なのではないかと思われます。つまり、政治的にも経済的にも世界を主導するアメリカの強引なやり方に対する反発がそれで、アメリカが自分たちの手法を勝手に「グローバル・スタンダード」などと言ったりしがちなものだから、それに対抗する動きが「アンチ=グローバリズム」と称されてしまうわけです。しかし、厳密に言うとこれは本来のグローバリズムではありません。


 仮に文明を情報の集積した状態と捉え、文化をその処理体系と捉えるならば、多様な情報処理の方法を持ち得ないまま情報を偏在させてしまった文明は衰え、やがて滅びていくのだろうと思います。そして、人類が古代に都市と文明を生み出してから今日に至るまで、文化的多様性を求めて展開してきたグローバリズムは断続性を持つ運動だったと思います。ただし、それは「パックス〜」的な覇権主義とは本質的に異なるものですし、ローカリズムナショナリズムを否定するものではなく、むしろそれらを包摂し、共存するものだと僕は考えています


 現代は情報・通信技術、交通技術の急速な発展と、各国の民主化、資本主義化がこの動きを加速しています。企業の中にグローバル化戦略を採用するものが出てくるのは、こうした状況に適応していくためであり、そのこと自体を否定してもあまり意味はありません。しかし、他方ではどれだけグローバリズムが進んでも人類が国家に替わりうるコスモポリタン共同体を形成するには相当長い歳月を要するでしょうし、企業にとっても、グローバル化することだけが選択すべき戦略ではないと思います。僕はむしろ超ローカルに徹することにも、企業の差別化戦略の鍵があるように感じています。だから、グローバリズムという言葉に対して、僕たちはもう少し理性的、論理的な対応が必要なのです。


 ふと気がつくと僕たちの周りにある、よく聞きなれた名前の日本の会社の大株主が外資になっていたり、その経営者が外国人になっていたりして、今後は日本の企業社会、経営文化も今までとは変わってくるでしょう。しかし、外資と言ってもピンからキリまでありますし、その性格や戦略、国際経営の進展段階も多様です。ですから、僕たちはそれをよく見抜いた上で、その中から良質なものだけを学べばよいのであり、外資だと言って黒船扱いして畏れたり、敵視したり、あるいは過剰に敬ったり、敬遠したりする必要はないと思います。


 所詮人間が作って、人間が働いている箱が会社なのですから、洋の東西が変わったところで、その本質が根本的に異なるなんてことはありえないのです・・・。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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