拓海広志「ふるきゃら応援団(1)」

 これは今から10年ほど前に書いた小文です。よかったらお読みください。


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 仕事を終えて家路につく頃、梅田駅界隈をうろうろしている浮浪者の数がこのところやけに増えていることに気づかされる。しかもその多くは年季の入ったベテラン浮浪者ではなく、どう見てもついこの前までサラリーマンをやっていたか、あるいはちょっとした事業をやっていたに違いない人たちのようである。


 企業の倒産やリストラによって失業者が続出する中で、浮浪者の数が増えていることは間違いないが、僕の知人などはスーツ姿の男性数人が繁華街の路地裏で残飯をあさっている姿を目撃したというから、事は少々深刻だろう。それにしてもGNPでは世界でも一、二を誇るこの国において、ちょっと失業しただけのことでいきなり残飯をあさるところまで転落せねばならぬというのは、何という生活水準の低さ、また社会資本の貧しさであろうか。


 奥村宏氏は日本の資本主義は「法人資本主義」とも呼ぶべきかなり特殊なものであり、その背景には日本人特有の「会社本位主義」があると語ったが(奥村宏『会社本位主義は崩れるか』等)、僕たちの国が豊かであるというのは「個」という立場に立ってのことではなかったようである。


 僕の知人にSさんという人がいる。僕はSさんとは建築家のOさんがやっている大阪のスナックで知り合い、すぐに意気投合してしまったのだが、Sさんは「ふるさときゃらばん」という劇団のプロデューサーだ。「ふるさときゃらばん」は日本の農村や漁村、山村の「現在」を題材としたミュージカルを作り、文字通り各地を巡業しながら日本の村や町に元気を与えてきた劇団なのだが、コミカルな芝居で観客を笑わせながらも現在の日本社会が抱えている問題を真正面から捉えようとしているのが素晴らしく、僕も今や同劇団の応援団の一人である。


 「ふるさときゃらばん」は地域社会のことをテーマにした「カントリー・ミュージカル」とは別に、日本のサラリーマン社会をテーマにした「サラリーマン・ミュージカル」なるものも手がけており、なかなか好評を博しているのだが、一見全く別世界の筈の「カントリー・ミュージカル」と「サラリーマン・ミュージカル」には奇妙なほど強い共通性があることに気づかされる。それは恐らくこれまでの日本のサラリーマン社会がカントリー社会の延長線上にあったが故にそう感じてしまうのだろうが、「カントリー・ミュージカル」を通じて共同体というものに強くこだわってきた「ふるさときゃらばん」が「サラリーマン・ミュージカル」に挑む必然性もそのあたりにありそうだ。


 戦後の日本社会の特徴は、僕たちの祖先が互助的な生活・生産・消費・交流・祝祭等の場としてきた地域の共同体を完膚無きまでに破壊したことと、営利集団に過ぎない筈の企業が失われた共同体の代替物として機能しようとしてきたことにある。企業が擬似的な共同体としての体裁を維持するためには、あまり成員の流動性があってはならず、また組織を年功序列型、男性中心型のものとしておく必要があったようだ。こうしたことは本来企業の生産性を阻害するものなのだが、多くの企業人がその家族も含めて自らの人生を企業に託し、企業と同一化することによって、日本企業が飛躍的な成長を遂げてきたことは周知の事実である。


 勿論、ここには元々幾つかの問題があったことは言うまでもないのだが、いずれにせよ企業のこのような性格を維持するためには、企業が常に成長を続け、社員に対して年功に応じた待遇を与えることが可能な環境下にあらねばならない。つまり市場が常に拡大・成長を続けていなければ、企業は共同体としての体面を保つことは出来なかったのである。


 幸いなことに高度成長期から安定成長期、そしてバブル経済期にかけての日本企業は拡大する市場の中で様々な規制に守られ、また種々の条件にも恵まれてすくすくと育ち、上述のような共同体を維持することも出来た。ところが、その後の低成長期、マイナス成長期を迎えると企業は自らがサバイバルするために、共同体という仮面を外さざるをえなくなってきたようだ。


 某大手証券会社が倒産して大量の失業者が生じた時、元社員の方々のインタビューを聞いていて感じたことがある。大会社で働いていた人たちなのだから、失業保険もそれなりにもらえる筈だし、金融ビッグバンと呼ばれる昨今だけに彼らを欲する外資系金融会社も少なくはない筈で、本来ならば彼らはそれほど右往左往する必要はないのだが、インタビューに答える人々の中にはあたかも魂の抜け殻のごとき人もいた。彼らが話すのを聞いていてわかったのだが、彼らは職探しをせねばならないとか、新しい会社では収入が減るのではないかといったことを心配していたのではなく、むしろ自分が身を置いていた共同体がにわかに崩壊したことにより、自分と家族にとってのアイデンティティを失って放心状態に陥っていたのである。


 ここにきて、人々はかつて地域の共同体の魂をいとも簡単に企業に譲り渡してきたことの代償の大きさを痛感し始めている。企業はそれが自らの成長のために有効に機能する間は疑似共同体としての仮面をかぶり続けるが、それが重荷になってきたらいとも簡単に仮面を脱ぎ捨てることが出来るのだ。企業を単なる賃金労働と自己啓発自己実現の場としてではなく、一種の共同体だと信じ込んできたサラリーマンの多くは急速に変貌していく自分の会社をやり切れない気分で見つめていることだろう。しかし、都市部に住むサラリーマンの多くは会社から一歩外に出た時に、戻るべき共同体をもう持ってはいないのである。


 考えてみれば20世紀は異常な時代だった。人類史上かつてないほど盛んに人々は世界中を駆け巡り、地球が気の遠くなるほど長い年月をかけて蓄えてきた天然資源を瞬時に使い果たしてきた。そして、様々な形で自然環境を汚染し、生態系のバランスをも破壊してきた。このことは20世紀後半において特に顕著だったろう。僕たちは地域の共同体だけではなく、身の回りのありとあらゆるものを犠牲にして、ただひたすらに経済的発展を求めてきたのだが、そうした時代の日本にマッチしていたのが、疑似共同体の仮面をかぶった企業だったのだろう。また、企業が共同体としての役割まで担ってきたからこそ、戦後の日本経済はうまく離陸できたとも言えるのである。


 ところが、20世紀も終わりに近づくにつれて、これまで皆が目をつぶってきた様々な矛盾が世界中で噴出してきている。特に経済の問題は大きく、表面的には政治や文化、あるいは宗教上の対立のように見えることでも、その背景には拡がり過ぎた貧富の差に対する感情的反発があったりする。しかも、その差が生じる理由が古典的な経済活動によるものではなくなってきていることが、貧しい人たちの深い絶望感を生み出しているように思えるのだ。


 現在、人間がモノを作って販売し、それを消費するという古典的な枠組の中での経済市場は、環境キャパシティという限界の中で徐々に飽和点に達しつつある。しかし、その一方で記号としてのお金をマネー・ゲーム的に動かす金融の世界の暴走ぶりが目立ち、その中でうまくやったギャンブラーのみが成功者となる世界も顕在化してきている。つまり、現在の経済状況は単なる景気の好不況のみで判断するべきではなく、20世紀的な経済のあり方が行き詰まりつつあることと、それを凌駕する規模に拡大した金融市場において、倫理性を伴ったグローバル・ルールの確立が遅れていることから生じる混迷期として見る必要があるように思える。企業も個人もその渦の中で喘いでいるのだろう。


 昨今、経済の世界でしばしば語られる「グローバリゼーション」なる言葉は、その本来的な意味として使われておらず、むしろ「アメリカ化」という言葉に置き換えた方が良い場合が多い。余談だが、アメリカやイギリスにせよ、ドイツやフランス、中国やロシア、インド、そして日本にせよ、確固たる軸を持った国・文化の国際化は否応なく覇権主義を伴う。グローバリズムとは本来それを相対化するものなので、僕はこの語はもっと正しく使われるべきだと思う。


 アメリカの経済システムとは一言で言うと妥協のない徹底的な競争原理に基づくものであるが、これは豊かな富を少数の国民で分かつことのできるあの国だからこそ成り立つシステムだと言える。僅かな富を多数の国民が分かち合わねばならぬ日本がアメリカと同じやり方を強行すれば、巷には失業者があふれかえることになるが、日本はアメリカのように社会資本が充実しているわけではないから、こうした失業者たちを待ち受ける運命は厳しいと言わざるをえない。


 それでも日本企業が自らのサバイバルのために「アメリカ化」の道を突き進むのであれば(ちなみに、僕はこれには半分賛成、半分反対。そのことについては機会を改めて書きたい)、国と産業界はセーフティネットの拡充を急がねばならないし、企業で働くサラリーマンも「個」としてどのような生き方をすべきかをより真剣に考えておくべきだろう。


 そんなことを思いながら「ふるさときゃらばん」の芝居を観る。そこには失われた地域共同体の再生に寄せる思いと、会社という名の疑似共同体に寄りかかって生きてきたサラリーマンたちへの優しいエールが込められている。


 もっとも、地域共同体はかつてのような閉鎖性を持ったいわゆる「村社会」のままでは再生できないだろうし、会社という共同体も従来のような縦型で閉鎖的なあり方から、機能重視かつネットワーク型で開放的な形へと趣を変えていくことだろう。そうした中で人々が自分が身を置く場所を共同体と感じることが出来るか否かは、これからの日本社会の行方を占う上で非常に興味深い点である。


 僕自身が以前から考えているのは、企業が共同体らしさを弱めることにより、地域社会は従来よりも共同体らしさを取り戻す可能性があるが、それはかつてのような純粋な生産共同体とは言いがたいだろう。そして、地域社会を横断的に補完するものとして趣味や同好の士が集ったクラブ的で緩やかな共同体が台頭し、それが社会に潤いをもたらすと共に、人間同志の絆を強める役割を果たすのではないかということである。


 企業共同体の弱体化+労働形態の機能分化+ネットワーク化、地域共同体の微回復、クラブ的共同体の台頭、そして新旧の宗教団体の役割などといったものを総合的に視野に入れると、今後の日本人の共同体意識の行方がおぼろげながら見えてくるのかも知れないが、それらの共同体はいずれもかつての「村社会」ほど強固な存在に成り得ないだろう(宗教団体にはその可能性があるが、それはあまりお勧めできない(笑))。


 僕たちはそうした共同体における「関係性」を大切にしながらも、今まで以上にしっかりと「個」としての生き方を確立し、「個」にとっての最も基本的な拠り所である「家族」の意味についてもきちんと考えておかねばならない時代になってきているようだ。


 「ふるさときゃらばん」の芝居にも「家族の再生」というテーマが常に加味されているのだが、これはこの劇団が「共同体−個−家族」という三者の関係性を非常に重視していることの表れでもある。まだ「ふるさときゃらばん」の芝居をご覧になったことのない方は、是非劇場に足を運ばれることをお勧めしたい。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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