拓海広志「公私論(1)」

 何年か前の『文藝春秋』に山田昌弘氏が寄稿した「70歳が日本をダメにした?」という文章が載っていました。タイトルはあまり穏当ではありませんし、僕は現在70歳台の人たちがかつて日本を悪くしたなどとはまったく思っていないのですが、山田氏のエッセイには多少頷ける点もあったので、その中から一部を抜粋してご紹介しましょう。


 『戦後、個人主義が広まったと言われるが、私はそうは思わない。強いて言えば、「家族主義」の時代といえよう。具体的には、「家族の物質的生活を豊かにすること」を至上の目標とする価値観である。敗戦によって、戦前の「お国のため」価値観を否定された彼らは、「家族主義」に従って戦後社会を形成し、そして、成功した。その裏側で、「公共性」も「個人」も両方置き去りにされたのではないか。21世紀に入った今、そのつけが回ってきているのではないか?』(山田昌弘「七〇歳が日本をダメにした?」より)


 実は一般に流布されているイメージとは異なり、「公」(公共)と「私」(個人)は直結しえますが、「公」(公共)と「家」(家族)は必ずしも直結しえず、それをつなげるためには様々な仕掛けが必要になると僕は考えています。


 戦後の日本社会は経済復興という目標を達成するために、山田氏の言う家族主義をこれまた戦後の日本社会の特徴である会社本位主義と結びつけるという仕掛けをしてきました。そこで会社は一種の擬似コミュニティとして機能することになり、終身雇用、年功序列、男性中心などの前提に基づく組織が形成され、男性は家族の為にその生涯を会社に捧げ、その妻は専業主婦となって夫を支えるという一般的な構図が成立しました。


 ここで、言葉の独り歩きや誤解を避けるために定義を明確にしておいた方がよいと思うのですが、家族を大切にするとか、家族を守るということは、人類が普遍的に持っている価値観であって、それはここで言うところの「家族主義」ではないでしょう。


 山田氏の言う「家族主義」とは、戦後の日本において特徴的となった「家族の物質的生活を豊かにすることを至上の目標とする価値観」のことであり、また、それが戦後の土地政策による地価の高騰や会社本位主義と絡み合ったことによって、家族の愛の巣であるマイホームのローンを支払うためだけに生涯を会社に捧げるサラリーマンや、それを銃後で支える専業主婦といった人々の生活のあり方、つまりライフスタイル全般を指す言葉でもあります。


 山田氏は、戦後の日本社会において「会社本位主義とワンセットになった家族至上主義」が、「公」と「私」を断絶してきたという社会制度的な問題を指摘しているに過ぎず、同氏が家族の絆や愛の大切さを否定しているわけではないと思いますので、この点については注意が必要です。


 ところで、上述のような会社本位主義的な社会において会社のために生涯を捧げるサラリーマンと、それを支える専業主婦という生き方についてですが、言うまでもないことながらそんなふうに生きている個々人を否定する理由はどこにもありません。


 ここで問題とされているのは、こうした社会には「生き方の選択の余地が少ない」ということであり、またそこでは「会社−家族」を超えた「公」と「私」が存在しにくいということですので、この点についても山田氏の主張を最近よく耳にする専業主婦否定論の類と解釈すると少し論点がずれてしまうでしょう。


 さて、残念ながら会社というのはどれだけコミュニティの仮面を被ってみたところで、それは「公共」ではありえませんので、経営が厳しくなればなるほど自らのサバイバルのために非情な面が出てくるのは、既に誰もが理解していることでしょう。


 しかし、多くの企業において終身雇用制が実質的な終りを告げ、「会社−家族」という軸が崩壊しつつある現在の日本だからこそ、「公共−個人」という軸を再確立する必要があると僕は考えています。


 それは決して会社や家族の軽視を意味するのではなく、「会社−家族−個人」というような軸の置き方をせず、あくまでも「個人」を軸の真ん中に置いて、「公共−個人」「会社−個人」「友人−個人」「家族−個人」というふうに多様な軸を設定する必要があるということです。


 健全な個人主義と自立思想は「公共」という概念とは相反しませんし、むしろそれなくして「公共」という概念は生きてこないと僕は思うのですが、日本の場合は「個人」が生きていないから、「公共」という概念が生まれてこないのだという山田氏の説には頷けるところがあります。


 ただし、ここで言うところの「個人」とは、全てのものから離れて独立した存在なのではなく、あくまでも全体の調和の上でこそ成り立ちうる存在であることも忘れてはいけません。


 このことについて僕は、以前「ネットワーク型組織・社会」についての小文を書いたときに、清水博氏の「ホロン論」を援用しながら少しふれたのですが、その部分をここに引用させていただきます。


   *   *   *   *   *   *   *


 ネットワーク型の組織や社会を健全な形で成立させるためには幾つかの前提条件がありますが、最も大切なことは主要なメンバーが「個」として自立していることだと思います。


 僕の言う「自立した個」とは、均質性の高い集団内だけに安住するのではなく、他者の異質性を個性として尊重しつつも、そこに通じ合うものを見出すべくコミュニケートしようという明確な意思を持った人のことを指すのですが、これは自己を生かすためには他者を生かさねばならないことを理解していることこそが「自立」の条件であるという前提に基づく定義であることをまずご理解ください。


 「自立」とは「独立」や「孤立」あるいは「屹立」と同義の言葉なのではなく、あくまでも他者との関係性においてのみ成立する概念です。従い、「自立」を「依存」の反対概念として捉えるのではなく、 他者との豊かな共生関係の上で成り立つものとして捉えるべきでしょう。


 そもそも人のアイデンティティや性格といったものは、他者との相互作用の上でしか確立しえないという原則を忘れてはなりません。ですから、互助や共助、公助といったことが乏しい社会においては、 「個」の自立もまた困難なのです。そうした考え方に基づき、私たちの社会や組織を「個」が自立できるような「場」にしていく必要があります。


 ここで言われる「自立した個」とは、「従属子」でもなければ、「独立子」でもありません。それは自由な<個>でありながら、その選択の自由さゆえに秩序の形成に自主的に参画して<全体>を形作る、言わばホロニックな存在だと言えます。


 「自立した個」は自主的な選択性を持っていますので、<全体>の秩序はそこから常に何らかの刺激を受けるでしょうし、その活発な働きかけによって古い秩序が解体されたり、新しい秩序が再構築されたりもします。このような新陳代謝を続けることは、<全体>にとっても<個>にとっても必要なことだと僕は考えています。


 また、こうした自由な<個>の働きは、それによって形成された<全体>の秩序を介して、再び<個>にフィードバックされてくることから、<全体>と<個>の間には循環型の「Give and Take」の関係が成り立ってくるわけですが、このことは個人と組織、社会の関係を健全なものとしておくためには不可欠なものだと思います。


 実はこれは生命における自己組織化の概念とも通じる考え方なのですが、僕は人間の作る集団も巨視的に見れば自然の一部であると認識しており、生命が組織化されていくさまとそれらが成り立っていくさまの間には連続性があるように感じているのです。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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