拓海広志「やりきれない話」

 また、一人の幼児が母親に虐待されて、ついに死に至ったという記事を読みました。こうした報道に触れるたびにやり切れない思いで胸がいっぱいになります。


 人間の親が子供を守り育てるというのは、動物としての本能に依拠する部分よりも、人間としての文化に依拠する部分の方がはるかに大きいと言われます。つまり、人間の親が子供を無条件に愛し続けるためには本能だけでは不十分であり、文化的、社会的な動機付け、価値付けが必要なのです。


 評論家の中には、昨今急増している日本での幼児虐待について、社会環境の急激な変容と、そうした変容に伴う価値観の多様化、相対化が生み出した負の側面だと言う人もいます。しかし、子供を虐待する親の大半は必死になって子供を愛そうと努力しながらも、それがうまく出来ないことについて悩んでおり、いつの間にか究極の弱いものいじめとも言える幼児虐待を止めることが出来なくなっているのが実情のようです。


 多くの母親が子供を産んだ後に迎える育児ストレスというものがありますが、それが原因となって本格的な幼児虐待にまで発展するケースはむしろ稀でしょう。しかし、その育児ストレスに別の事情が加わることによって虐待が始まってしまい、それに対して周囲から適切な介入を受けることが出来なかった場合に、取り返しのつかない方向にまで問題が発展していくことがあるようです。


 幼児虐待致死事件のよくある類型の一つは、若くして子供を作った女性が夫か恋人と別れ、心の寂しさを埋めるために別の男性と一緒に暮らすようになるのですが、子供はなかなかその男になつこうとはせず、それに焦った女性が子供を躾けようとして折檻しているうちにエスカレートしていくというものです。しかし、多くの事例においてこうした女性たちは「幸福な家庭」を築きたいという強い思いを持っており、子供への虐待についても「新しい父親に適応できない子供への躾けだ」と強弁しているだけに、この事態はとても悲しいです。


 心の傷や寂しさを恋愛で癒そうとする人のことを「恋愛依存症」と呼ぶことがあります。確かに恋愛には人の心を癒したり、元気にする力があるので、僕は必ずしもそれを否定的にとらえる必要はないと思います。しかし、心の問題の解決を恋愛に過度に依存していると、その恋愛が少しうまくいかなくなると大きく落ち込んだり、さらにより確かな恋愛を求めて彷徨するといったことにもなりかねず、その結果として満たされぬ思いが余計に強まることがあります。こうした反動や彷徨の犠牲が自分の子供に及ぶというのは痛ましすぎるでしょう。


 話題は少し変わりますが、僕は先日あるマーケティングの専門家と話をしました。その人によると、最近の日本における集客のキーワードとして「癒し」と「感動」、「健康」というものがあるそうです。そして、これらはサブリミナル・レベルも含めて、既に様々なところで企業やNPO、あるいは政治団体や宗教団体、環境団体などに利用されているそうです。


 「癒し」「感動」「健康」。いずれも大変結構なことだし、僕たちは日々の暮らしの中でいつもそうした要素が少しでも多くなるように心がけながら生きているはずです。ところが、それらがいつの間にか人集めやビジネスのキーワードになっているという事態を、僕は決して肯定的には考えることができないでいます。


 日常的な家族や友人との関係の中で、あるいは身近な自然や環境との関わり合いを通じてそうしたものを得ることのできない状況があるからこそ、これらの要素を強調するマーケティングが成り立つと考えるならば、それは僕たちが築き上げてきた社会の貧しさを反映しているとしか言えないでしょう。


 現代の日本人はそれぞれの日常を淡々と生きながらも、それをより潤いに満ちたものとすべく家族や友人との関係を豊かにしたり、身近な自然や環境とのつながりを大切にするといった、静かで地味だけれど確かな人生の美学を失い、もっと刹那的なものに振り回されているのかも知れませんね。


 ところで、自分の子供を虐待する人は、かつて自分自身が親から虐待されて育った体験を持つケースが多いと言われています。僕は人の心の問題を全てそういう「物語」にはめ込んで安易に理解したつもりになるのは危険だと思いますが、人間の対人関係の基本が子供時代の親との関係の中で築かれていくことは間違いありませんので、自分が親からされたことをいつの間にか自分の子供に対してもしてしまうということもありえるだろうとは思います。


 しかし、親からどのような育てられ方をしようとも、人には思春期から成人になる過程において自分なりの努力や周囲との関係の中で自己を確立していく時期があります。ですから、その時期にどのような関係が可能な社会、場所に身を置いているのかということも見逃せません。そこで、かつて受けた傷を癒しながら克服することが出来れば、「幼児虐待の世代間連鎖」という「物語」を断ち切ることは決して不可能ではないでしょう。


 ところが、昨今の日本社会は何らかの問題や異質性を持つ他者を大らかに受け入れ、その傷を癒しながら克服させるには、あまりに余裕や包容力がなさ過ぎるのかも知れません。人が心を蘇生させるためには身近な人たちとの関係が不可欠なのに、社会全体が余裕を失ってくるとそうした関係も希薄になりがちです。それで「癒し」や「感動」「健康」を看板に掲げながら活動する人々も出てくるのでしょう。


 現代の僕たちが目指すべき社会は、「個」が「個」としてしっかり自立しながらも、いつも互いにさり気なく支えあっていける社会であり、同時にうまく自立ができない「個」や、弱っている「個」を支援するための社会的な仕組みや価値観の醸成も不可欠だと思います。


 そうした社会であれば、親からの虐待を受けたことによって心に深い傷を持つ人であっても、周囲からの支援を受けながら親として自立していくことは可能でしょう。また、仮にそれがうまくいかなくても社会全体でこどもを育てるという意識のある社会であれば、子供の安全を守り抜くことだけは出来るはずです。


 幼児虐待致死事件の著しい急増ぶりは、日本社会の抱えるストレスのはけ口が一番弱いところからさらに弱いところへ向けられているものだけに、僕はやり切れなさを覚えます。


 これは大きくは日本社会の問題として考えていくべきですが、日々起こっている個々の問題についてはその親子の周囲が如何に彼らを支えられるか、またそれが難しい場合は社会として如何にその子を守ることが出来るかということをより実践的に考えていく必要があります。


 でも、その際に一つだけ間違いなく言えること、つまり考え方のプリンシプルとしておかねばならないのは、親の親権と愛よりも子の生命と魂の方が大切だということでしょう。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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