拓海広志「北斗丸航海記(4)」

 これは僕が商船大学の学生だった頃、9ヶ月に及ぶ卒業航海の中で綴っていたメモのような日記です。今から20年も前の学生時代に書いた青臭い日記を公開するというのはかなり気恥ずかしく、また「そんな文章を読んでくれる人がいるのかな?」と考えると少々心許ないのですが、当時の練習船の雰囲気を知っていただく上では多少意味があると思いますので、思い切って当時の文章をそのまま活かした日記をここに転載しようと思います(ただし、友人たちのプライバシーに関する記述については削除しました)。


 ただ、今回この古い日記を読み直して気がついたのですが、当時の日常そのものだった航海のことや訓練のこと、仲間たちとの交流についてはあまり克明に記されておらず、むしろ自分の心象風景が中心に記されているようです。プライバシーの保ちにくい練習船の船内生活でもあり、当時前者の方はあまりにも日常のことになっていて、かえって書きにくかったのかも知れません。そんな半端な日記の連載ですが、当時船の中で読んでいた本、観ていた映画、聴いていた音楽などの紹介と共にご笑覧ください。


   *   *   *   *   *


★2月21日
 サンディエゴを出てすぐに本船をとらえた低気圧は天気図から予想されるコースをことごとく裏切り、本船の逃げる方をずっと追いかけてくる。そのため、今日はライフボートを洋上に降ろしてセーリングするという帆走訓練が予定されていたのだが、中止になってしまった。残念!
 外洋を行く船は3時間おきにファックスで送られてくる天気図に基づいて今後の天気の変化を予測し、針路を少し変えたりしながら走っていくわけだが、船乗りは天気図を100パーセント信頼するわけにはいかないこともよく知っている。
 ところで、外洋を航行する船舶には気象観測データを気象庁に送るという義務がある。気象庁は陸上の観測所のデータだけではなく、船舶から送られてきたデータにも基づいて天気図を作成し、気象予報を出すわけだから、その責任は重い。もちろん、練習船においては気象観測も我々の仕事だ。


★2月27日
 日付変更線を通過し、再び東経に戻って来る。従い、今年の我々には2月28日はない。
 ところで、船や飛行機が西から東に向けて進むと1日は短くなり、東から西に向けて進むと1日は長くなる。飛行機の場合はこの変化の度合があまりにも激しいために時差ぼけなどということが起こるのだが、船の場合はそれほど激しくはないので、常に船内時刻の12時ちょうどに太陽が南中するよう、毎日時計の針を動かしていく。
 これは午前のパーゼロ直の仕事で、8時にワッチを交替したらすぐに天測を行って正午の推定位置を求め、船内時計の針を動かさねばならない。平均航海速力が17ノット程度の北斗丸の場合だと1日に調整する時差は20〜30分程度なので、午前のパーゼロ直は往航では4時間のはずの当直時間が3時間半程度に縮まり、逆に復航では4時間半程度に伸びてしまうのである。


★3月3日
 今日一日、実習生はワッチや作業から解放され、その代わりに期末試験を受ける。悪天候が相変わらず続いているため、船の揺れはひどく、船酔い組の人たちにとっては少々辛い試験だ。
 全部の試験が終了した後の映画会、担当の僕は勝どきのレンタルビデオショップで借りてきた『網走番外地』を上映したのだが、その頃本船はちょうど南鳥島のそばを通過していた。こんな遥かな南の小島も日本の領土であり、自衛隊の基地があるということに、日本の広さを思い知る。正に南鳥島番外地である。


★3月5日
 サンディエゴを出てからずっと荒れ模様だった海も段々穏やかになり、ようやく東京に近づいてきた。と同時に、海の色が泥色になり、空気が澱んできたことがハッキリとわかる。
 夕方には検疫錨地にアンカーしたのだが、その北側には「ゴミの島」こと「夢の島」が横たわっているため、耐えがたい悪臭が風に乗ってやって来る。外国から東京へやって来る船の多くもこの検疫錨地に錨を降ろすわけだが、長い航海を終えた客人に対する東京の最初の挨拶がこの悪臭なのだと思うと、僕はいささか憂鬱になる。


★3月6日
 夕方、航海終了を祝しての安着パーティーが催される。残っていたビールを全て飲み干しての盛大かつ愉快なパーティーとなったが、後の掃除もまた大変であった。


★3月7日
 有明埠頭の航海訓練所専用桟橋に着岸。有明は晴海に比べると不便で殺風景なため、我々の多くはあまりここを好いていないのだが、こんな場所にも「潮の香り」を感じる人はいて、それを目的にわざわざやって来たりもするようだ。
 作家の日野啓三氏などは有明に代表される東京の無機的な人口島を舞台に、そうした無機質なものに魅せられる人物を扱った小説を書いているが、氏が最初に魅せられたという戦後の焼け跡のバラックとそれを同一線上で捉えるという視線の置き方は、僕にはあまりピンとこない。


★3月8日
 総員上陸許可が出たので、映画と芝居の梯子をする。映画の方は『ジベールの日曜日』と『地下鉄のザジ』を、芝居の方は第三エロチカの『フリークス』を観たが、久々の東京は人が多くて疲れる・・・。


★3月9日
 乗船実習科には進まず、今月いっぱいで卒業する仲間たちの送別会を越中島もんじゃ焼き屋で開催した。彼らは明日で北斗丸を下船するのだ。


★3月12日
 横浜の海難審判庁を視察する。この日は京浜港内で起こった小型油送船とタグボートの衝突事故に関する審判が行われており、僕らはそれを傍聴した。審判は夕方で終り、そのまま自由時間となったので、僕は日生劇場で『NINAGAWA・テンペスト』を観てから船に戻った。


★3月13日
 本船が東京に戻ってきてからもずっと様々な事務整理や船体の補修及び整備作業に追われていたが、今日の夕方から15日の夜まで48時間上陸の許可が出た。今夜は新宿のライブハウス「ピットイン」で渋谷毅カルテットの演奏を聴いた。


★3月14日
 またまた映画と芝居の梯子。映画は『ユリシーズ』と『真夏の夜の夢』、芝居は流山児事務所の『やさしい犬』。


★3月15日
 下北沢でプロジェクト・ナビの芝居『想稿・銀河鉄道の夜』を観てから本船に戻る。


★3月17日
 有明埠頭を出て館山沖にアンカー。ここで3ヶ月の乗船実習のまとめを行うことになる。


★3月22日
 再び東京港に戻る。今度は晴海埠頭に接岸した。


★3月23日
 朝9時より下船式。1週間の休暇後、4月1日からいよいよ帆船実習が始まることになる。ハワイ、サンディエゴへの航海を終えた北斗丸、フィジーニュージーランドへの航海をしてきた青雲丸の両船で実習した者はそれぞれ半分ずつに分けられ、今度は日本丸海王丸という2隻の帆船に振り分けられるのだが、僕は日本丸に乗り込むこととなった。


★3月25日
 神戸に戻り、大学の学部卒業式に出席する。これで僕らは航海科を卒業し、4月からは半年だけの乗船実習科(帆船実習)に進学することになる。
 式の後、卒論作成にあたりお世話になった先生方に挨拶をしに行く。ちなみに、僕の卒論のテーマは「円高が船員労働市場に与える諸影響についての考察」であった。


★3月26日
 一緒に日本丸に乗ることが決まったK君と一緒に神戸中山手のジャズバー「サテンドール」へ行き、一杯やる。


★3月30日
 垂水の居酒屋へ行き、「劇団・新感線」で売り出し中の俳優・古田新太さんと飲む。古田さんとはかつて「垂水芸能大学」なるサークルを作って遊んだ仲だが、尊敬に値するガッツの持ち主である。きっと将来大物の役者になるだろう。


★3月31日
 1週間の休暇を終え、再び東京へ向かう。いよいよ明日からは日本丸の訓練生だ。今夜は一緒に日本丸に乗ることになる東京商船大のS君宅(永福)に泊めてもらう。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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