拓海広志「日本丸航海記(1)」

 これは僕が商船大学の学生だった頃、9ヶ月に及ぶ卒業航海の中で綴っていたメモのような日記です。今から20年前の学生時代に書いた青臭い日記を公開するというのはかなり気恥ずかしく、また「そんな文章を読んでくれる人がいるのかな?」と考えると少々心許ないのですが、当時の練習船の雰囲気を知っていただく上では多少意味があると思いますので、思い切って当時の文章をそのまま活かした日記をここに転載しようと思います(ただし、友人たちのプライバシーに関する記述については削除しました)。


 ただ、今回この古い日記を読み直して気がついたのですが、当時の日常そのものだった航海のことや訓練のこと、仲間たちとの交流についてはあまり克明に記されておらず、むしろ自分の心象風景が中心に記されているようです。プライバシーの保ちにくい練習船の船内生活でもあり、当時前者の方はあまりにも日常のことになっていて、かえって書きにくかったのかも知れません。そんな半端な日記の連載ですが、当時船の中で読んでいた本、観ていた映画の紹介と共にご笑覧ください。


   *   *   *   *   *   *   *


★4月1日
 昨夜永福の実家に泊めてくれたS君と共に晴海埠頭に停泊中の日本丸へ向かう。間近で見る日本丸はやはり美しく、日本を代表する帆船としての貫禄と優雅さを兼ね備えているなあと改めて思った。
 僕の場合、子供の頃からずっと帆船に乗りたくて商船大学に入ったようなものだし、大学で受けてきた様々な訓練もこれが最後かと思うと、さすがに感慨が湧いてくる。
 日本丸のそばには海王丸も停泊しており、そちらでも乗船式の準備が進んでいるはずだ。海王丸は現在横浜に係留されている旧日本丸と同型の姉妹船であり、彼女も間もなく引退することになる。非常に古い船なので、遠洋航海と言ってもハワイまで行って帰って来るのが精一杯というところだ。しかし、かつての帆船時代の雰囲気を今に伝えうる貴重な船だ。
 一方の新日本丸は日本がその造船技術の粋を結集して作り上げた最新鋭の帆船で、船体の大きさは世界の帆船の中で第5位(総トン数2570トン、全長110メートル)、帆走能力は世界でも最高水準という優秀な船である。
 甲板の上はどこから見ても帆船以外の何ものでもないのだが、船内に足を踏み入れるとコンピューターによる諸々の制御システムがしっかり働いており、機走時にエンジンルームやコントロールルームに当直機関士がいなくてもブリッジでエンジンを制御、遠隔操縦できるMゼロ船の資格も有している。
 かくて、O船長より乗船許可をいただき、我々の帆船実習は開始された。汽船の練習船よりもずっと小さく、タコ部屋といった感じの居室で半年間生活を共にするルームメートは青雲丸で実習してきたY君とO君、僕と一緒に北斗丸で実習してきたW君の3人である。
 この日本丸は旧日本丸海王丸と比べると一回り大きいのだが、今回乗り込む練習生の数は僅か45名(内2名が女性)しかいないため、相当忙しくなりそうだ。
 と言うのも、本来商船大学の航海科の学生数は東京、神戸で各60名、それが日本丸海王丸に分乗して実習するので、本来は60名程度の練習生が操船することを前提に作られているのだ。つまり、入学時には60名いた仲間が、最後の帆船実習では45名にまで減っているわけで、少し寂しい。
 昨年の9月から今年の3月までの間、日本丸には全国に5つある商船高専の学生たちが乗って実習していたのだが、そのときの練習生の数は軽く100名を越えていたそうで、肉体労働の多い帆船航海としては羨ましい限りだ。
 O船長によると、この45名という人数は帆船実習の歴史において最低人数となるそうで、「今回の航海は大型帆船の操船に必要なミニマム人数を知るための実験としての意義もある」と語っておられたが、そう聞くと俄然やる気が湧いてきた。よし、目一杯働いてやろう!


★4月2日
 さっそくマスト上での作業に備えての登艢訓練が開始される。日本丸の甲板上にはフォア、メイン、ミズン、ジガーの4本のマストが立っており、フォアからミズンまでの3本のマストは甲板上から先端までで約45メートルにも達する。
 帆走とはこの高いマストに登ってセール(帆)をヤード(帆桁)にくくりつけて畳帆したり、逆にそれを解いて開帆したりし、デッキ(甲板)上にある無数のロープを引いてヤードの角度を変えたり、セールの張り具合を調節するということの繰り返しによって成り立つ。従い、マスト上やデッキ上で正確かつ機敏な動作がなされないと船は進まないのだ。
 実を言うと僕は高所恐怖症である。帆船に憧れているくせに何だと思われるかも知れないが、本当のことだから仕方がない。かくて、そんな僕の不安を他所に登艢訓練は開始された。
 練習生はデッキ上で作業を行う際には常に裸足でいなければならないのだが、特にマストに登るときはそれが絶対厳守のルールとなっている。マストの昇り降りは梯子状に編まれたロープを手がかり、足がかりにするわけだが、この時に靴を履いていると足裏の感覚が鈍くなり、縄梯子から足を踏み外すことがあるからというのがその理由なのだが、裸足でロープの上を歩くというのも慣れるまでは結構痛い。
 この日はメインマストの真ん中くらいまで登っただけなのだが、下から見上げるよりも、上から見下ろす方が相当高く感じるもので、まして船が風と波にゆらゆらと揺れるものだから怖くてたまらない。身体はガチガチ、冷や汗はタラタラ。こんなことで、激しく揺れる外洋の上や、嵐の中でマストに登り軽快な作業などできるのだろうか? そんなことを思いながら、最も初歩的な訓練を終えた。


★4月3日
 晴海を出て館山沖にアンカー。ここでセール・ベンディングを行った後、遠洋航海前の「どさまわり」(国内の港巡り)が行われる。セール・ベンディングとはセールロッカー内に収めてあるセールを取り出して、各ヤードに装着していく作業のことで、これから半年間にわたる帆船実習の開始を意味する重要な仕事だ。
 ところで、帆船での航海は汽船よりもはるかに所要時間が長くなる上に、寄港地では様々な交流イベントにも参加せねばならぬため、それらに備えてのクラブ活動も活発に行われる。今回の航海に際して、運動部は柔道、剣道、相撲などのクラブがハワイで予定されている交流戦に備えて発足し、文化部の方は茶道、詩吟、コーラス、新聞、映画、美術、写真などのクラブが発足した。他に面白いところでは、帆走中にトローリングを楽しむための漁労班や、長い航海中の奉仕部隊とも言える散髪班も発足した。
 僕は一応有段者でもあるので柔道部に入部すると同時に、新聞部の部長にもなり、はたまた漁労班にも籍を置かせてもらった。


★4月5日
 いよいよセール・ベンディングの日がやってきた。乗船以来の登艢訓練は、ただ単にマストに登って降りてくるだけのことだったが、これからは迅速、正確、安全に作業を行うためにマストに登らねばならないのだ。
 僕らはセールロッカーから何枚ものセールを運び出し、朝から夕方まで一日中マストに登りっぱなしでそれらをヤードに取り付けていったのだが、その作業の忙しさに僕はいつの間にか海面からだと50メートルに達する高所で平気な顔をして作業ができるようになっていた。むしろマスト上にいることが気持ちよくすら感じられる。いやはや、人間の順応の早さというのは凄いものだ!


★4月8日
 館山抜錨、名古屋へ向かう。大型帆船の場合は、日本沿岸での航海は機走、遠洋航海は帆走が主となるが、沿岸航海中でも部分的に練習のための帆走をすることもある。ちなみに、本船の機走時の航海速力は約12ノットと、汽船の練習船に比べると遅い。
 船の速力を表すのにはノットという単位が用いられるが(1ノットというのは1時間に1マイル進む速力のことで、海上での1マイルとは1852メートルのこと)、これはそもそも糸や縄などの結び目を意味する英語である。
 かつて速力を測定するための計器がなかった頃の船乗り達は等間隔に結び目(ノット)を入れたロープの先に小さな丸太(ログ)をつけて船尾から海に流し、一定時間にどこまで流れていくかを見て船の速力を計ったという。これがノットという速力単位の語源なのだが、ログという言葉も航海日誌をログブックと呼んだり、電磁ログという速力計で測定した対水速力のことをログ速力と称するような形で今も使われている。
 さて、機走で出発した本船だが、相模湾にさしかかると初めての帆走訓練を開始した。ようやく甲板上にある無数のロープ類やマストに取り付けられたヤードやセールなどの全名称とそれぞれの役割を暗記したばかりの僕らは士官のオーダーに従ってマストに登り、デッキ上を走り回るのだが、まだまだ的確な判断に基づいた無駄のない動きには程遠い。結局、ボースン(甲板長)以下の甲板部員たちにオンブにダッコで支えられながらの初帆走となってしまった。


★4月10日
 名古屋入港。消防船の放水による歓迎を受けながら岸壁に着岸する。今回の名古屋寄港は同港が新しい港のシンボルとして建てたポートビルの完成記念式典に花を添えるためのものであり、夕方からはこのビル内で入港歓迎レセプションが催された。レセプションには伊勢湾の海の幸がズラリと並べられ、美味しかった!


★4月11日
 今日は終日一般公開が行われ、1万人近い人が本船を見学に来た。練習生は1日中そのアテンドやガイドをせねばならないのだが、それが終わると早朝から必死になって磨いたデッキが土足で船に上がってくる人のために真っ黒になっており、階段の手摺などに使われている真鍮も青錆がついてしまって輝きが失せている。これらを再び磨き直すのも僕らの仕事なのだ。
 それでも船が大好きでたまらないという少年たちが瞳を輝かせているのを見ると、昔の自分のことを思い出して疲れが吹っ飛んでしまうし、船に対して様々な思い入れを抱いている老人と話すのも僕は大好きだ。そうかと思うと、「こんな船は税金の無駄遣いや。その分を福祉に回せばいいのに」なんて言葉を露骨に浴びせてくる人に対しては、僕らも船員教育が持つ意義を説明したりするので、一般公開での人々との触れ合いを通して学ぶことも多い。
 それにしても船を訪問するのに、ハイヒールを履いてやって来る女性や、下駄履きやビーチサンダル履きでやって来る男性もいたりして、日本は貿易立国だとか四面を海で囲まれた海国だとか言っている割には、海や船についての基本的な知識やマナーは浸透していないんだなぁと、改めて思った。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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